始まりへ至るまで - 選定のオルディナンス

『選定の儀』が始まるよりも古い記録です。
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アルファベット @alpha_ordinance

 薄暗い空間は煙に満ちていた。ふぞろいな内装の個室から漏れる阿片の煙は、それをごまかすという名目の香と混ざり合って、その店先にまで気だるい雰囲気の足を伸ばしている。  受付であろう台をはさんで、男と女が向かい合う。  片方は初老の男で、片方は年若い女である。

2014-05-11 19:04:12
アルファベット @alpha_ordinance

 女の風体は異様だった。そのすらりと長い手足、要所要所が豊満な肉体を惜しげもなく晒した、やたらと煽情的な衣装だ。  その黒い革の質感、青い魔法石をふんだんに使った髪飾りと耳飾りは、彼女が『搾取する側』の人間であることを雄弁に物語っている。

2014-05-11 19:07:23
アルファベット @alpha_ordinance

 この阿片窟の主であろう初老は、帳簿をめくる手を止めて、そこで初めて女へと視線を上げた。 「……いや、アルちゃん。その布は何?」 「もごもご(訳:これのこと?)」  首を傾げる彼女の、その首から口元にかけて、布が乱雑にぐるぐる巻きにされていた。

2014-05-11 19:12:34
アルファベット @alpha_ordinance

 切りそろえられた黒髪も巻き込んで、子供が巻いた包帯のような雑なぐるぐる巻きだった。  明らかに装飾用途の布ではない。少なくとも、衣装の持つ全体の雰囲気を台無しにしているのには違いない。

2014-05-11 19:16:35
アルファベット @alpha_ordinance

「もごもご(訳:いや、こないだ、うちの『ダガー』くんがクスリで駄目になっちゃってさあ)」 「それ機密じゃないのかな……」 「もごもご(訳:そんでボスが朝礼で『お前らクスリは自分では絶対に吸うなよ』ってうるさいから)」 「多分それはそんなあからさまに煙避けろって意味じゃないよ!」

2014-05-11 19:18:30
アルファベット @alpha_ordinance

「もごもご!(訳:でも、それであたし、六天王4番目に繰り上がりになったんだ!)」 「話聞けよ!」  店主はガリガリと頭を掻いて、めくってみせていた帳簿を台に放った。目を通す規定になっているそれに、女は見向きもしない。

2014-05-11 19:24:13
アルファベット @alpha_ordinance

 ただ、その帳簿を見て、やっと思い出したというように。 「もごもご(訳:そうだったそうだった。明日の朝日を海に浮かんで迎えたくなかったら、大人しく組織にシノギを払うのだ)」 「はいよ。今月分」 「もごもご(訳:ありがとー!)」

2014-05-11 19:26:40
アルファベット @alpha_ordinance

 麻袋を受け取って、女はくるりと一回転した。銅貨には悪の重みがあり、悪の音色がする。気持ちいい。  きっとこの阿片窟に来ている連中は正義なのだろうと女は思っている。悪じゃないから、わざわざ阿片を吸って気持ちよくならないといけないのだ。正義とはいえ、それはちょっとかわいそうだった。

2014-05-11 19:28:24
アルファベット @alpha_ordinance

「ああ、それと」  店主が、視線も合わせずに一枚の銅貨を投げて寄越す。麻袋より重みは小さく、音は高く。 「それはオマケ。帰りにおやつでも買っていきな」 「もごもご!(訳:わーい! じゃ、おじさんまたね!)」  無邪気に手を振って、女は跳ねるように暖簾をくぐる。

2014-05-11 19:42:21
アルファベット @alpha_ordinance

 異物を吐き出した阿片窟が、今度こそ、本来の陰鬱な煙のにおいに満たされた。

2014-05-11 19:43:20
アルファベット @alpha_ordinance

 町はずれの通りに人通りはない。  それはもともと寂れているのか、それともこの「小さな大陸」を牛耳る『組織』の関係者を避けているのか。  気にすることもなく、女はてくてくと進む。ほどけかけの長い布が口元で揺れる。

2014-05-11 21:04:21
アルファベット @alpha_ordinance

「もごもご……(訳:おやつって言ってもなあ……)」  この町はずれにお菓子屋などあろうはずもない。時々露店で売っているものも、貧しい人々が生きていくための食料であって、お菓子ではない。

2014-05-11 21:06:48
アルファベット @alpha_ordinance

 この世に数ある悪の中で、女はとりわけお菓子のことが好きだった。  なにせ、必需品と貴重品を大量に混ぜて、意味もなく食べるのだ。あまりにもカッコ良すぎる。お菓子を考え出した悪党は、それこそ誰もが直視できずに漏らしてしまうような怖い人なのだろうと、女は信じていた。

2014-05-11 21:08:40
アルファベット @alpha_ordinance

 おやつに、ともらった銅貨を軽く宙に放っては弄んでいると、それに目を付けてか、南部なまりの強い露天商が彼女に声をかける。 「シャッチョサン、ミテカナイ」 「もごもご!(社長だよ!)」  もちろん社長ではないが、女は店を一瞥する。  武器屋、だ。

2014-05-11 21:12:16
アルファベット @alpha_ordinance

 ナイフ。斧。棘付きの鎖、大ぶりのナタに、穂先だけの槍。そう言ったものが、何ら遠慮なく、むき身で並んでいる。  この『小さな大陸』の果ての僻地では、これらも立派な必需品なのだ。名目のためだけに貼られた「料理用」の札がしらじらしい。

2014-05-11 21:16:41
アルファベット @alpha_ordinance

「トリヒキアルヨ、イッパイアルアル」 「もごもご……(訳:武器かあ……)」  武器に関わる仕事はしていない。今の仕事をもう少し続ければ、そういう仕事も入るとボスには言われているのだが。

2014-05-11 21:19:44
アルファベット @alpha_ordinance

 だとしても。今の仕事と同じように、売り買いの話をしたり、取り立てをするだけのかかわりになる気がしていた。そもそも、何かの特徴だとか、そう言ったものを覚えるのが極端に苦手だった。実のところ、この「ナイフ」と「斧」の区別すら、彼女にはろくについていない。

2014-05-11 21:22:32
アルファベット @alpha_ordinance

 それでも。ひとつだけわかることはある。 「もごもご(訳:なんか、カッコいいやつ、ないかなあ)」  気分か、気まぐれか、なんとなく心惹かれて、露店の前に屈みかけた、そのとき。  真横から、小さな体がぶつかってきた。

2014-05-11 21:25:38
アルファベット @alpha_ordinance

「もご!?(訳:もご!?)」  もつれあって転んだ影は、彼女を見もせずに慌てて起き上がる。子供だった。息は上がって弾んで、動きのたびに汗を撒いている。  走り出そうとして、女の巻いていた長布を踏みつけてまた転ぶ。もちろん女もつられて地面に頬を打つ。

2014-05-11 21:30:32
アルファベット @alpha_ordinance

「もご(訳:ちょ)、……ちょっと! 何するの!?」  ずれた長布の向こうから叫んで、その子供の姿を見る。  痩せた少年だった。目はこぼれて落ちそうなくらいに窪んで、骨のような腕にいくつかのパンを抱えていた。生きていくための食料だ。

2014-05-11 21:34:39
アルファベット @alpha_ordinance

 そして、少年の背後を透かし見る。  何やら「待て」だの「逃がすか」だの、そんなわめき声が遠く聞こえた。女の視力が影を捉えれば、それは何度か見たことのある露店の店番だった。  少年と対照的な、恰幅のいい女だ。しかしそれは健康な体つきとは言い難く、別種の食の貧しさがにじみ出ている。

2014-05-11 21:38:18
アルファベット @alpha_ordinance

 そこからの女の判断は早かった。

2014-05-11 21:41:31