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寒天の話。伏見で作られていた寒天は、和歌山から運ばれた天草を大阪から水運で運び入れて伏見で寒天に加工していた。 #関西文脈23
2014-06-07 14:56:51伏見の酒造業はいつから?実は江戸時代には盛んではなかった。当時は伊丹のお酒が京にも出回っていて、伏見が入り込む余地はなかった。明治になってから月桂冠が瓶詰めなどの技術を取り入れたことで、京都を飛び越していきなり東京へデビュー。 #関西文脈23
2014-06-07 14:58:45酒造について。京都の酒は基本伊丹が握ってた。明治になって伏見の月桂冠が瓶詰めを開発したことと、陸軍が深草に置かれたことが、伏見=酒が全国に周知された要因。 #関西文脈23
2014-06-07 14:58:58また伏見にあった第十六師団の存在も、伏見のお酒が全国に広まるきっかけとなった。近代的な大量生産の醸造方法において、他所より長じたものがあった。 #関西文脈23
2014-06-07 14:59:54「近世の伏見展~伏見城と鳥羽伏見の戦いを中心に~」 | ニュースリリース | 京セラ kyocera.co.jp/news/2014/0303… #関西文脈23
2014-06-07 15:25:52先輩、ご馳走様でした!"@egamiday: カントリーマアムの配給があった。カントリーマアムってあんこが入ってるらしいですよ。豆知識。あんこだけに。 #関西文脈23"
2014-06-07 15:27:06足利学校。北条氏がパトロン。学校なので勉強をする。勉強するにはテキストが要る。一冊では仕方ないので沢山要る。当時は今のような図書館という概念がないが、図書館機能を持っていたと言える。 #関西文脈23
2014-06-07 15:29:341590年、小田原の北条氏は滅ぶ。これにより足利学校の庇護者がいなくなる。「滅ぶ」といったが、北条氏自体はこの後の時代にも脈々と生き続けているので注意。 #関西文脈23
2014-06-07 15:31:14豊臣秀次は学問好きだった、と言われている(装ってたという説もある)。秀次が足利学校の書籍を持ち去った。これに伴い閑室元キツ上洛。書籍は家康の仲介で足利に戻されるが、閑室元キツは京都に留まる。 #関西文脈23
2014-06-07 15:33:42足利学校の庇護者だった小田原の北条氏が滅んだ後、その蔵書が豊臣秀次によって京都に持ち去られ、それを家康が足利に戻した。元佶は、蔵書とともに京都に来た後、家康の学術顧問になった。 #関西文脈23
2014-06-07 15:33:45秀吉の死後、家康が元佶に命じて、伏見で木活字印刷を国家事業としてはじめさせました。関ヶ原後には、伏見に円光寺も建てられました。 #関西文脈23
2014-06-07 15:35:27伏見版。川瀬一馬「古活字版之研究」によれば、家康が閑室元キツに10万個の活字を与えた。国史大辞典によれば、この木活字は円光寺のほか京都府立総合資料館に現存。総合資料館にあるのは912個。A4サイズの箱で2つくらい。アルファベットチョコくらいの大きさ。 #関西文脈23
2014-06-07 15:38:37