- negadaikon
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明治に都が移ったため、京都とともに伏見もいったん寂れる。しかし明治天皇陵ができたことで、陵墓巡拝で人々が訪れる地となる。当時の陵墓巡拝は観光のような一面も。 #関西文脈23
2014-06-07 14:34:35伏見に円光寺ができた背景。ここまで述べたように伏見は伏見幕府ともいうべき政治の中心になった時期がある。政権のお膝元に作られた学術機関であることの意味。 #関西文脈23
2014-06-07 14:36:30「右文故事」。紅葉文庫書物奉行だった近藤重蔵の書いたもの。このひとは書誌の方でも有名だが探検家としても知られる。 #関西文脈23
2014-06-07 14:37:44文禄・慶長の役により朝鮮半島から銅版活字が伝来。銅は鋳造が大変なので木活字版になってブーム。しかし長続きせず。江戸時代は読者が爆発的に増えたため、いちいち活字を組み直さないと増刷ができない木活字版は不便。板本の方がメインになっていく。 #関西文脈23
2014-06-07 14:40:41近世木活字・小史。文禄慶長の役で朝鮮半島から銅板活字が渡来した。江戸時代初期に一瞬木活字が広まりかけたが、結局整版のほうが普及した。 #関西文脈23
2014-06-07 14:41:03いま円光寺の跡は、碑などもなく分からなくなっている。本田上野にあったといわれている。本田上野はホンダウエノではなくホンダコウヅケ。伏見城からの距離を考えると、天下人からそこそこ近い位置に学術機関があった。 #関西文脈23
2014-06-07 14:45:03伏見は城が南側にあるのでそちらが中心に見えるが、当時は陸路なので北側の方が京都から来るのには便利。その近くに黒田官兵衛の屋敷があったという伝承がある。伝承の裏は取れていないが、事実だとすれば交通の要所に近い場所に居たということで、黒田家は重視されていたものか。 #関西文脈23
2014-06-07 14:50:22大阪から船で伏見まで来た大名が、江戸に向かうのに、京都によらずに醍醐から大津へ抜けた。朝廷と関係するのややこしいので、ていう微妙な人間関係にありがちな行動。 #関西文脈23
2014-06-07 14:52:04これは行きたい>室津 | 歴史 | たつの市観光協会 御津支部 kanko-mitsu-hyogo.jp/page_history/h… #関西文脈23
2014-06-07 14:53:04参勤交代の西国大名たちは、京都をパスして伏見経由で東へ行くケースが多かった。当時は幕府と朝廷の関係が微妙。ちょっとでも京都に足を踏み入れると朝廷にご挨拶しないわけにいかないし、ご挨拶しにいくとやり方によっては幕府から睨まれる。 #関西文脈23
2014-06-07 14:53:19