次は劉備とか、見てみる? 「先主祖雄,父弘,世仕州郡。雄舉孝廉,官至東郡范令。【三国志先主伝】」 ほぼ訳:先主(劉備のこと。三国志蜀書では劉備は先主と言われます)の祖父は劉雄という,父は劉弘といい,世にわたり州郡に仕えた。劉雄は孝廉に挙げられ,官は東郡范(県)の令に至った。
2014-05-29 22:13:39出たよ早速。孝廉に挙げられながら、箸にも棒にも引っかからなかったかコネが無かったかで結局県令で終わったという割とよくあるキャリアの一人が。実は劉備の不幸は孝廉に挙げられた祖父が県令で終わったということにあるのではない。そういうのは一杯いるし。
2014-05-29 22:20:20彼の不幸は親父が早く亡くなったことで折角のキャリア家系という流れが親父の代で断たれたことだ。一代抜けたために中央政界から知り合いが居なくなり、集合知としての彼ら中央政界の人脈の中に各々の記憶として蓄えられている膨大な官歴データベースから結果的にスポイルされてしまったことだろう。
2014-05-29 22:23:21靈帝末,黄巾起,州郡各舉義兵,先主率其屬從校尉鄒靖討黃巾賊有功,除安喜尉。督郵以公事到縣,先主求謁,不通,直入縛督郵,杖二百,解綬繫其頸着馬枊,棄官亡命。(中略)【三国志先主伝】
2014-05-29 22:25:56ほぼ訳:靈帝の末,黄巾が起つと,州郡は各おの義兵を挙げることとなった,先主は其の屬を率いて校尉の鄒靖に従い黄巾賊を討って功が有ったため,安喜(県)尉に除された。
2014-05-29 22:28:05督郵が公事を以ってして縣に到ったため,先主は謁(見)を求めたが,通じなかったことから,直ちに入って督郵を縛りあげて,杖うつこと二百,綬を解いて其の頸に繋げて馬枊に着けると,官を棄てて亡命した。(中略)【三国志先主伝】」
2014-05-29 22:28:18見てよこの堅パパとの違い。これが鄒靖でなく朱儁みたいなキレ者のキャリア様だったら! 簡単に言うと県丞>県尉と思って貰えたら。そして笑えるのが劉備のぶちキレ方。「解綬繫其頸着馬枊」これはアレです。自分の官職の証である綬(ロープっぽいもの)で督郵の首輪として馬を繋ぐ杭に繋いだという。
2014-05-29 22:35:48そういう劉備にも次の機会が。 「頃之,大將軍何進遣都尉毌丘毅詣丹楊募兵,先主與俱行,至下邳遇賊,力戰有功,除為下密丞。復去官。後為高唐尉,遷為令。【三国志先主伝】」
2014-05-29 22:38:56ほぼ訳:この頃,大將軍何進が都尉の毌丘毅を遣わして丹楊に詣でさせて兵を募らせた,先主はこれと<与>俱に行き,下邳に至ったところで賊に遇い,力戰して功が有ったことから,除されて下密の丞と為った。復た官を去った。後に高唐の尉と為り,遷って令と為った。」
2014-05-29 22:40:47今度の上役はどうやら前の人より政治力があったらしく劉備は晴れて下密(県)の丞となる。ここで堅パパと並ぶんだけど。だけど何が不満なのか復た官を去ってしまう。何が不満なのかっつーか。まあ、割とはっきりしてんですけど。
2014-05-29 22:45:15世にわたり州郡に仕える家の出で、爺さんの時には孝廉に挙げられて県令に至ったのだから俺とかも県長にはなりたいよぅってことなんですが。だから県丞だともう各地の県丞ばっかを歴任して終わりってのが見えてるからワンチャン狙って出直すぜ!という風にしか見えないというか。
2014-05-29 22:47:23そのワンチャン狙いは分らなくもないけど、堅パパのようなラッキーが連ちゃんで訪れなければそれは叶うべくもない願いというやつ。どのみち孝廉や茂才、それに次ぐ州郡の官職を歴さないと中央政界への道は拓けない、ということで。それとは別の努力として劉備は地元涿郡の生んだエリート、盧植を頼る。
2014-05-29 22:59:08というわけで続き。後漢では、官途に就くにあたり一定の学問的素養が求められた。官吏を出す家系であっても、そいう素養が無いと見られるとそのクラスから外され、以後平民として様々な徭役を課されることになる。
2014-06-11 22:29:09後漢書や三国志あたりで時々出てくる話だが、悪ガキとしていつまでも悪さして遊んでばかりいたらある日兵役に徴される命令が来て、そこで初めて発奮して学問に取り組み官吏への道を歩き始めた、と言うストーリーがある。
2014-06-11 22:29:21これがモロにそういうことで、兵役という徭役を求められるイコール官吏を出す家系であるというクラス分けから除外されたということで、そういう家系にあると自惚れている者からすると天地がひっくりかえる程の愕然とする事態なのだろう。
2014-06-11 22:29:39「年十五,母使行學,與同宗劉德然、遼西公孫瓚俱事故九江太守同郡盧植。【三国志先主伝】」 ほぼ訳:年十五となると,母が学を行わせ使むこととしたため,同宗の劉德然、遼西の公孫瓚と<与>俱に故(もと)の九江太守で同郡出身の盧植に事(つか)えることとなった。
2014-06-11 22:30:09このJ( 'ー`)しの判断が後の劉備にとって大変な財産となる。というのも劉備の師となる盧植はこの後大儒者として世間から認められてゆき、結果、その弟子である劉備は乱世となったおりに師の陰徳を思うままに享受して世を渡ってゆくことになるからである。J( 'ー`)し強ぇ。
2014-06-11 22:31:10ところでここから話が少し脱線する。 劉備が師事した盧植について。この頃は学者として駆け出しと言っていい。師事していた馬融が数年前に逝去していたこともあって、師を気にする必要がなくなったこともあり、自らの学統を建てんとの野心満々であった。
2014-06-11 22:31:34この前後の野心満々の頃の盧植を見るにはやはりこの頃の盧植の行動と盧植伝に収められた彼の進言の文章を見るのがいい。 時皇后父大將軍竇武援立靈帝,初秉機政,朝議欲加封爵.植雖布衣,以武素有名譽,乃獻書以規之曰:【後漢書盧植伝】
2014-06-11 22:31:53ほぼ訳:時に皇后の父である大將軍の竇武が靈帝を援け立てて,初めて機政を秉すと,朝議にて封爵を加えられんことを欲した.盧植は布衣であったと雖も,以って竇武が素より名譽を有していたことから,乃ち書を獻じて以って之に規って曰く:(以下略)
2014-06-11 22:32:05見て見てぇー(艦これ如月風)、この盧植さん、布衣に過ぎないのに大将軍となって政治に乗り出した竇武にいきなり『僕の考えた最強の献策書』を送りつけてるし。はい、中二病全開です。
2014-06-11 22:32:45そしてここでは紹介しないけれど、盧植伝に収められているこの竇武に献じた書の中身というのが・・・全編美辞麗句を駆使しながら竇武が政治に乗り出すにあたり権力掌握のため企図していた事柄悉くをディスってやがります。そして当然のようにスルーされる盧植。
2014-06-11 22:33:31