突き立てたアイスピックをあっさりと手放す。今までいくつもの調理器具をそうしたように。 「……負けですね」 膝をついて、腰を落とす。視界が揺れて定かでないのは、何も自ら左右の概念を破壊したからだけではないだろう。 水時計が落ちるように、時間は流れ、当然のように血が失せていく。
2014-06-19 19:16:58崩壊したショッピングモールから見る夜空は、それこそ青く白み始めていた。もうじきに、朝が来る。 ……これ以上は、ない。 「投了、っていうんでしたっけ。あはは……、頑張ったんですけどね。【天は……、」 口癖のようにそれを口にしかけて、止める。
2014-06-19 19:17:50定まらない視界の中、そこにいるだろう【純白】へ。 「もう何もしませんよ? これはきっと本当です。……このまま辺り全部を【蒼天】でぐだぐだにしたところで、わたしだけ逃げる方法なんてないですから」 手は打ちつくした。その上で、至らないというのなら――この結果が「正解」なのだ。
2014-06-19 19:23:03なら、いいか。 どうでも、いいか。 「……あは、この手じゃあお料理も何もないですね。……えっと。ああ、そうだ。【純白】の方は、お料理ってします?」 品を配膳し終わって、客にくだらない世間話を振るような、先ほどまでの衝突などどうでもいいような笑顔で、空色の娘は小首を傾げた。
2014-06-19 19:27:23「ああ。そうだ。わたしのことなら。お好きになさって、いいんですよ。……何にしたって変わりませんから。それこそお好きに料理なさって……あ、今のはなんだか恥ずかしいのでなしでお願いします」 ぽろぽろと、益体のない言葉ばかりが零れ落ちる。
2014-06-19 19:33:39ぼやけた視界の向こうの彼女が、怒っていようが、泣いていようが、空色の娘の柔らかな声色は崩れない。 どうせ、どんな顔をされているかわからないのだから、何を言えばいいのかもわからないのだけれど。 「どうか……なさいました?」
2014-06-19 19:36:06「何もしてはくれないのか」 漆黒の彼を胸に抱いたまま、蒼天の女に声をかける。 「そら、開けて食ってみろ。缶詰というのだ。なかなか美味いぞ」 外套から取り出した銀色のそれを無造作に投げ渡す。 「それを肴に夜明けでも祝わないか? 貴女の料理には及ばないがな」
2014-06-19 20:49:45「こっちがお好みなら堅パンと水もあるぞ。ワインは無いが…いや、それはこっちの風習か」 ぽりぽりと頭をかいて、 「何にしても、過去がどうであれ俺は俺だ。別の誰かにはなれん、それだけは」 すまないという言葉は寸前で飲み込んだ。それはおそらく望まれた言葉ではない
2014-06-19 21:02:14ふっと小さく笑う。 「こいつに最後に朝日を見せてやりたいんだ。次に生まれてる場所への手向けとしてな」 ずっと重くなった躯をなんとか抱え直す。 「来るか? 一緒に」 空いた方の左手をそっと差し伸べた。
2014-06-19 21:08:26投げ渡された缶詰は、胸に当たって、一度足の間に落ちた。 「もう。片手じゃ無理ですよ、これ」 苦笑いでそれを拾いなおして、差し出された左手に、ぽん、と置く。 「待っててくださいね、たぶん、缶切りがありました……」
2014-06-19 21:44:12左手でごそごそと割烹着を探りながら、空色の娘はよろりと立ち上がった。 手を取るどころか、相手の体ぜんぶに寄りかかるような格好だ。かえって負担になるかもしれないが。 「許してくださいね。もう少しで夜は終わりですし」
2014-06-19 21:44:31【純白】がかけた言葉の真に意味するところを、娘は理解はできていない。 やっぱり、変なことを言う人だな、なんて思うだけだ。 「……ああ、そうそう。あなたは、少し、うちの人に似てるんですよね。でも……」
2014-06-19 21:45:21遠い空を透かし見る。朝日が、近い。 「あの人は、わたしとなら、どんな場所だって一緒にいてくれました。――あなたはそうじゃないでしょう」 自分が帰らなかったら、あの人はどうするのだろうか。わたしの作り上げた死の国の宴で、永遠にわたしを待っていてくれるのだろうか。
2014-06-19 21:45:35……本当はそれさえも、どうだって、いいのだ。なぜならば。 「まあ、わたしだって、――あの人が行くのなら、どんな場所でも良かったんですけどね」 ここにいない人の話をしながら、娘は【純白】の行く先へ、ゆっくりとついていく。 「ああ、大和煮ですね。これ。熊とは珍しい……」
2014-06-19 21:46:36顔をほころばせながら見上げた、その先に、空がある。 色彩のぶつかり合いを経た空は、夜明けを示す一瞬に、鮮やかな蒼に染まっていた。 「そういえば、――」 あの人と初めて逢ったのも、こんな、……その続きは、声になることはなかった。
2014-06-19 21:47:37その虚無と混沌は、人の子として生まれた。 人の子であることにさしたる意味はなく、サイコロを振った結果のように、花でなく、鳥でなく、魚でなく、獣でなく、神でなく、人だった。 存在した瞬間から存在しなかった「それ」は、ただの世界の綻びだった。
2014-06-19 22:06:56ただの人間でしかなかった「それ」の親は、自らが成し、産み落とした子のことを見ることができないばかりか、自分が子を産んだことにすら気付くことができなかった。 「それ」は初めの十年と少しを、厠でうずくまって過ごした。そしてある夜のそりと起き上がって、厨房でものを食べた。
2014-06-19 22:10:34「それ」は、真夜中に誰もいない厨房で食べ物を漁っては、昼間に誰もいない布団の中で寝ることを繰り返した。誰も、それに気付かなかった。 やがて「それ」は教えられるでもなく、料理を覚えた。 美味しいと思うことだけが、「それ」の存在だった。
2014-06-19 22:14:15ある年に、「それ」の親であった女が死んだ。 その地域には「おとほしのよさり」と呼ばれる儀式があった。誰かが死ねば、その親族を家に集め、夜通し歌を歌って、明くる朝に死体を燃やすのだ。
2014-06-19 22:15:35薄暗かった小さな家に、かつてないほどの人が来た。「それ」は当然のように、全員分の料理を作った。 人々は一晩嘆き悲しみ、歌を歌って過ごしたが、その料理に気付くことは、ついぞなかった。 その夜に初めて、「それ」は、自分が何かおかしいのだということに気が付いた。
2014-06-19 22:15:51明くる朝に、「それ」は家を出た。 生まれて初めての昼、生まれて初めての外だった。 外では女の死体が燃やされていた。「それ」はその火の中へと迷うことなく歩いて行った。それはひどく魅力的で、当然の選択肢に思えた。
2014-06-19 22:17:02雲ひとつない、透き通るような蒼天の日だった。 「そらはこんなにあおいのに」 どうして、自分がここに存在できようか。 生まれて初めて発した言葉は、娘のかたちをした空白の中にすとんと落ちた。
2014-06-19 22:19:04そして、その時だった。 小さな肩に、誰かの左手が置かれたのは。 「――あの料理を作ったのはきみか?」 「それ」は驚いて振り返る。「それ」は触れられる温もりを知らない。足元の火だけが暖かい。
2014-06-19 22:24:03けれど目の前のその人は、――彼女を見つけたその神様は、真剣なまなざしで娘に問う。 「きみは何だ。いつから存在していた」 「え、と」 身を焼く炎が熱い。胸が、顔が、脳が熱い。娘は頭をぶんぶんと振って、やっとのことで答えた。
2014-06-19 22:26:00