《クロニクル1995-》を巡って
- hashizume_y
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ぜひ。石田尚志の1995年問題、照屋勇賢の1995年問題など話しましょうー。沖縄もいろいろあった年。@seiichitsuchiya: あ、その作品は観たことないかも。いや、森美の回顧展の時に観てるのかな? いずれにせよ、実物観に行きますです。
2014-06-11 00:01:01@seiichitsuchiya @ton0415 横から失礼いたします。1995年といえば批評空間の別冊「モダニズムのハードコア」が出たということもありました。僕などはこちらの流れはどうなったのか?という問題が、美術の世界から離れた今も心に引っかかっております。
2014-06-11 00:30:11@ryuheisato @seiichitsuchiya この件、クロニクル1995-でも言及してます。見ることのアレゴリー展もあった年。80年代からのモダニズム/ポストモダニズム議論の転換点でもあったかと。丸山直文、額田宣彦らが具象モチーフへ。一方奈良、杉戸、落合らが注目など
2014-06-11 00:35:351995年の東京のアートシーンにおいて、重要なものをあげるとしたら、まず「視ることのアレゴリー」展の岡崎乾二郎さんの展示だね。あれはすごすぎた。事件だよあれ。1995年を語る上で、あれとりあげないでどーするって話。
2014-06-11 01:20:41ありがとうございます…というか、コレクション展でやるべき企画だったのか自問…拾えてないもの多すぎますもんね。これからの議論の入り口として。@mizuki0730: 都現美のクロニクル1995年展、これだけで全館展示してほしい!常設展会場だけじゃもったいない!あとカタログ出版希望。
2014-06-11 01:53:49都現美コレクション展「クロニクル1995-」も予想以上に面白かった。特に3階の前半が興味深い。キーワードを元にセクション分けされているのだが、キーワード同士の関連性も考えさせられるし、セクションを超えて作品同士が関係性を結んでいるように思えた。1
2014-06-14 19:37:23例えば「あいまいな日本の私」にある大竹伸朗と都築響一と、「戦後50年」の会田誠「戦争画RETURNS」とが何やら共通性を持ち同時代性を共有しているようにも見えてきたり… 個人的に90年代の作品にあまり興味を惹かれない(展示を見た後もそう)のだがとても面白い展示でした。クロニクル2
2014-06-14 19:38:05そして「クロニクル1995-」は、開館20周年記念として行われたものではあるけれど、それを寿ぐだけの展示ではなく、都現美開館という出来事自体を時代のなかに相対化する視線もまた同時に存在していたのが印象的だった。クロニクル3
2014-06-14 20:37:55あと3階の後半について言えば、モダニズムや具象絵画というキーワードは、前半のものと少し異質に感じられてしまったかな。あとモダニズムのセクションはなんであの作品なんだろうとちらっと思った。所蔵作品との関係なのかもしれないが。クロニクル4
2014-06-14 21:12:05シンポジウム「1995年に見えてきたもの」を終えて
登壇者は佐々木敦(批評家、早稲田大学教授)・椹木野衣(美術批評家、多摩美術大学教授)・速水健朗(ライター、編集者)・南雄介(国立新美術館副館長)
モデレーター籔前知子(東京都現代美術館学芸員)
先週末の「クロニクル1995-」シンポジウム。沢山のご来場ありがとうございました。以下、展示とシンポジウム について連投してみたく。
2014-06-17 09:49:31司会者の力不足もあり(^^;; 沢山の論点が拡散しましたが、1995年という「分岐点」を相対化するという目的からするとそうならざるを得ない、というのは章ではなくキーワードの羅列とした展示も、速水さんの著者「1995年」にも通じる問題かもしれません。クロニクル1995(1)
2014-06-17 09:51:13展覧会としての「95年論」は、例えば椹木さんの「日本ゼロ年」、南さんの「ひそやかなラディカリズム」、松井さんの「マイクロポップの時代」展がそれに当たると思うのです。それらに対するひとつのアンサーとしてこの「クロニクル1995-」を企画したというところはあります。(2)
2014-06-17 09:51:41佐々木さんの指摘から、80年代末にすでに終わっていたものが持ちこたえきれずに表面化する年としての95年という認識が共有されました。オウムも、バブルに計画された開館する当館も、バブル経済の恩恵に基づいて運営されたレントゲンも、同じ80年代の残滓である、と。クロニクル1995 (3)
2014-06-17 09:52:18椹木さんはオウムに、シュミレーショニズムが前提とする非歴史性の行く末を見、以後同時代美術から距離を置き歴史研究へシフト。そこで椹木さんが非歴史性の反復という思考へ向かったその年に、現代美術史を刻むために美術館が開館したというのも興味深い対比だと感じました。クロニクル1995(4)
2014-06-17 09:54:36南さんからは都市計画としての現代美術館の位置付けなどを伺うことができ、1995年の分析から、現代美術館の存在自体を相対化するという私なりの裏テーマ(なので展示はホンマさんのウォーターフロントを撮った「東京郊外」から始まります)にも届くものとなりました。クロニクル1995(5)
2014-06-17 09:55:41三時間、あっという間でまだまだ多くの論点を残してしまいましたが、展示もぜひ引き続きご覧ください。先週金曜日の読売、現在発売中の新潮などにもレビューが掲載されています。次号のアートスケープでは足立元さんの長編レビューも。こちらもぜひ。クロニクル1995(6)
2014-06-17 10:01:57土屋誠一氏の連ツイとそれに対する応答
95年展、基本的には東京都のコレクションのみで構成されていることを前提としているはずなので、「あれもない、これもない」とか無茶なことを言うかもしれませんが、ご容赦を。
2014-06-24 22:45:15まず、95年ってどういう年だったのかと考えると、阪神淡路大震災があって、地下鉄サリン事件があって、エヴァンゲリオンが放映されて、Windows95が出た年、とだいたいこの4つで95年に種が撒かれたさまざまな事象が括れるかと思います。
2014-06-24 22:47:19まず、阪神淡路大震災についてですが、芦田昌憲さんという方の震災直後の写真が展示されていたのですが、そもそもこの芦田さんっていう方がどういう写真家なのかググってもわからない。宮本隆司氏の作品が展示されるべきだと思うけど、要するに宮本さんの作品は収蔵していないということなのでしょう。
2014-06-24 22:50:53次に、郊外問題については、ホンマタカシ氏の写真で代表させてほしくなかったという個人的な心情はある。個人的なことを言えば、港北ニュータウンというモロにサバーバンな場所で育った人間としては、ホンマ氏に代表されれるのは勘弁してくれ、と思った。
2014-06-24 22:56:46それから、地下鉄サリン事件だが、要するにこれに対応するような作品は、ほとんど作られなかったということでいいのだろうか。オウム真理教とは、80年代バブル、ニューアカ的なものの残滓だから、95年には既にリアルな問題ではなくなっていたということなのか?
2014-06-24 23:02:49