- L_O_Nihilum
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twitter.com/geshtamjump/st… 非ゲームプレイヤーは、「ゲーム感覚」と言う言葉を「失敗しても損失が少ない、やり直せばいいだけの物に関する感覚」と言う意味で使うが、ゲームプレイヤーは目を血走らせて頭をかきむしりながらやるからな。例えリセット可能なゲームであっても
2014-07-05 10:40:51朝日新聞が集団的自衛権特集の記事で艦これプレイヤーをインタビューしてたんだけど、「ゲームでは沈んでもちぇっと思うだけ」とプレイヤーが答えたと書いてあったから「ホントは取材してないな」と思った。
2014-07-05 05:35:31「それ、ゲームの中の話なんでしょ?」と、キングカズマのママさんかなんかがサマーウォーズで言ってたシーンを思い出す。 ゲームをやってる本人は必死(この場合世の中の生命状態が関わってるので特殊事例だが)なのに、「ゲーム」て言うだけでくだらない娯楽という認識になる。
2014-07-05 12:08:53そういうゲームというものの実感がわかない人が語るゲームってまさに、 「ゲームであっても遊びじゃない」茅場式ゲームなんだろうね。 つまりVMMORPG。最近の虚構論が現実の曖昧化やゲーミフィケーションを語る心理ってここにある気がするのは気のせいかな。
2014-07-05 12:09:53ゲームに真剣になれるのはゲームが無害だから。という、見かけ矛盾していて案外当然のことは、こういうこという人でも、将棋やオセロなら納得する。 こういう不思議な状況はどこからやってくるんだろうか。
2014-07-05 12:10:34世代の問題ではないとしたら、おそらくこれが「娯楽=暇」を扱うものであるところにキーがないかと思っている。 オセロ、囲碁、将棋、ソリティアといったゲームが「暇」を消費する構造と、「テレビゲーム」が「暇」を消費する構造、それぞれの内部構造の違い。
2014-07-05 12:12:14確かにテレビゲームはそれ自身が(というか生産者が)あらかじめ目標を決めちゃってるから、その目標に行くために遊ぶゲーム、と統一的な目線でいうことができる。これは、巨人のドシンやどう森のような非-試合的なゲームから、目的の限界がないオンラインゲームに至るまで実は共通している。
2014-07-05 12:13:27ひっきょうそれは、「どういう風に遊ばれるか」という作者の想定の範囲内であって、それがあってはじめて「ゲームデザイン」になるわけだから、それを遊ぶということは必然的に「ゲームの指定された目標を達成する」になるのは言うまでもない。
2014-07-05 12:14:21このことを、「ミッション・プログラム・システム」と呼んでみたい。 テレビゲームが持つMPSと、テーブルゲームが持つMPSの構造の差異が、テレビゲームを遊ぶことの本気さに対する認識、の違いとして考えられはしないかどうか。
2014-07-05 12:15:15テーブルゲームのMPSはどうなっているだろうか。 遊び方、共通のルールといったものはあるかもしれないが、実はこのMPSが、作者の意図として入ってないのがテーブルゲームに多い形だ。
2014-07-05 12:23:44というのも、「囲碁」の碁盤および、石は、「囲碁」の遊び方を強制されない。 「五目並べ」も可能である。これは、碁石と碁盤でかたちづくられる可能な限りのゲームが、これらによって出てくる遊びのすべてに許されてるという事だ。
2014-07-05 12:24:52もっといえば「トランプ」「花札」なんかも、MPSがそのように開かれている実例だ。 MPSがユーザーの側に完全にゆだねられていて、かつ、製作者がそこまで繰り広げてもらうことを想定さえしていないという点で、テーブルゲームのMPSは非常に幅が広く、「未定義的」である。
2014-07-05 12:26:04定義的なMPSの中で遊ぶことが、テレビゲームの端的な性質である、という事は、提供者側からみた事情のようにみえて、実は享受者がかなり意識するところのものなのだろう。そこからちょうどゲームが与える娯楽が、「暇をつぶす」目的を持ちえないと錯覚させるから。
2014-07-05 12:27:19あるいはそのソフトあるいはアプリたる「ゲーム」に従事している、作業している、という風に見えるのだ。
2014-07-05 12:27:55んで…じゃあなんで、その「従事」しているようすを、テレビゲームを遊ばない側のひとは、「しょせんゲーム」と言ったりしちゃうのか。
2014-07-05 12:34:44ゲームに従事している感覚=ゲームの側のMPSに従事している感覚。 これをそのように、「本気で遊んでない」ように解釈してしまう理由はなぜか。
2014-07-05 12:36:48結論から言うと「暇つぶし用のものなのにそれに従事していることがくだらないから」なんだけども、どうしてこれがかれらの脳内で導かれるのか、を頭の中で整理できない。…それはたぶん、MPSを持つ「ゲーム」の外部との関係だと思うんだけど。
2014-07-05 12:39:16一般的なテーブルゲームのMPSは、そのゲーム盤の作者ではなく、遊び手の側にある。ことに対戦ゲームの場合は、対戦相手との間にできる。 たとえば、麻雀であれば、親と3人の子の間で決定されるのがMPSである。 また、麻雀牌のMPSは、麻雀のみならず、四川・上海という方向もある。
2014-07-05 12:41:09これがヒントになると思う。 トランプゲームのMPSは選んだ遊び方(Ex:七ならべ、大富豪、馬場抜きえtc)によってて、トランプの側になく、選んだゲームとそれを選んだ現実世界上の人々の間にある。 もっと身もふたもなく言えば、「社会」にある
2014-07-05 12:42:25「社会」で暇を消費しているから、これらのゲームは「真剣に遊ぶゲーム」といわれる。 なぜなら、MPSを現実の他人と共有しているからだ。現実の他人と遊ぶから、その他人に勝つか負けるかという言語ゲームができる。
2014-07-05 12:43:30nそれは、その世界の中に関わろうとする本気の遊び、として受け取られうるわけだ。 (注意してほしいのは、この視点はあくまでも「テレビゲームを遊ぶゲーム感覚を”失敗しても損がない”と考える側の視点で」考えてるという事だ)
2014-07-05 12:44:35損はない側からの視点で、ビデオゲーム・テレビゲーム(これそろそろ言い方変えたほうがいいよね。電子ゲームくらいがちょうどいい)がなぜ「ミスしても損がないゲーム」と感じるのか?MPSはむしろ厳密に定義されてて、失敗したら間違いなく損に見えるのに?
2014-07-05 12:45:47そこでさきのトランプや麻雀と比較するとわかりやすくなる。 電子ゲーム遊戯のMPSは制作の地点で決まっている。言い換えれば、ゲーム自身が内的に持っている。現実の他人と共有するMPSの必然性がない。
2014-07-05 12:47:00遊んでいる当人にとってはMPSが厳密に定義されるかもしれない。対戦ゲームでも同様で、格闘ゲームなんかを見てればわかるように、プレイヤー間でのMPSが共有されている。が、実に、重要なのは、これさえ「対戦ゲーム」というゲーム自身の内的なMPSなのである。
2014-07-05 12:47:53いくら他人との情報共有や言語ゲーム共有をしても、MPSはつねにゲームの側にある。これが電子ゲームの性格だといえる。
2014-07-05 12:48:28そうすると、それを普段遊ばない外部の側から見れば、それは前述した社会とのMPSの共有に従事しない=必死なMPSの達成を必要としない=”遊ぶ必然性の感じない”ゲームとして見える、という構図が出来上がるのではないか。
2014-07-05 12:49:32