初音ミク文化論「身体性なきボーカロイドの跳躍」
- jsato_FLEET
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とりあえず、社長のミクへの「愛」はふんだんに伝わりました(笑)。悩みましたが、敢えて正面から反論したいと思います。来るべきUstの叩き台として(笑)。これは以前出た、初音ミクの「ライブ」はシミュレーションか否か?という問題に関わると思います。 @jsato_FLEET
2010-11-16 20:12:14初音ミクのライブで観客は「ほつれ」のなさの代わりに、「行間」を読む、とのことですが、これは言い換えれば「感慨に耽る」ということだと思います。つまり観客が、その場にあるものではなく、ネット上での過剰な「ストーリー」を勝手に読み込んでいるんだと思いますが、 @jsato_FLEET
2010-11-16 20:18:40これは普通のアイドルでも当たり前にある現象かと。それこそAKB48の「手の届くアイドル」戦略とそう変わらない。これは裏を返せば、あくまで観客の「想像の範囲内」でしかないわけです。想像の飛躍がない。ではそれを飛び越える力は何かといえば前述の規定不能性です。 @jsato_FLEET
2010-11-16 20:19:35「凄い」ライブには必ずこの規定不能性が生み出す、「得体の知れなさ」が付き纏っていると思うし、それこそが音楽の「呪術性」だと自分は信じているわけです。 @jsato_FLEET
2010-11-16 20:21:29初音ミクの「ライブ」には「身体性のなさ」故の「ほつれのなさ」故の「規定不能性」がない。つまりそこで終わっている。それは「live」ではない。ちなみにバックバンドの「ほつれ」は脇役のそれでしかなく、おそらく観客にとってもどうでもいい問題。 @jsato_FLEET
2010-11-16 20:26:00現状の隆盛は「非実在にも関わらず、まるで実在しているかのよう」という驚きへの盛り上がりが大きく作用しているように僕には見えます。つまりあくまでシミュレーションであるという立場です(ここに異論があるかもしれません)。 @jsato_FLEET
2010-11-16 20:27:52なのでいずれは身体性のなさによる限界が訪れるのではないか?というのが自分の予想。ただし、質的な壁を、量的な過剰さが突破することが可能かどうか?という点については、今後成り行きを見守ってみたい感じはしています。@jsato_FLEET
2010-11-16 20:31:02と、ここまで書いてきたことはあくまで初音ミクの「ライブ」とは?ということに関する考察です。重なる部分はあるにせよ「初音ミク」そのものに対してではありません。だから初音ミクを考えるには、その過剰な「ストーリー」について考えなければならない。。 @jsato_FLEET
2010-11-16 20:32:37個人的には、身体性をここまで抹殺してきたことで「跳躍」を遂げた日本のオタク文化には確かに奇妙な可能性は感じます。しかし身体性を忘れてきたことへのツケ(孤独死・無縁死・児童虐待・高齢者不在問題等々、つまりは共同体の喪失)もまた考えざるを得ません。。 @jsato_FLEET
2010-11-16 20:36:02あと自分の問題意識は、初音ミクの経済効果云々は完全に脇に置いておりますのであしからず・・・。 @jsato_FLEET
2010-11-16 20:37:45とりあえずざっと読んで思った点を…。行間、ストーリーですがこれはネット上のミクの物語を差したわけではなくて、何の前情報もなくミクのライブを見てもやはり人は行間を脳内で補完しちゃうと考えます。これは根本的な問題で、だから人はマンガを読めるし映画が見れる。@mech_hayashi
2010-11-16 20:57:13大雑把に論を進めちゃうと、なのでAKBもミクも他のアーティストも、ライブ以外の映像や絵画や文学も、ひいては現実の生活でさえも人は幻想の中に生きている。虚構を現実化するのか、現実を虚構化するのかの違いがあるくらい。@mech_hayashi
2010-11-16 20:57:17プログラミングされたミクのライブでは規定不能性がなくてそこで終わっているとのことですが、会場の観客達の一体感盛り上がり、画面の向う側の観客たちの盛り上がり、客はミクをインターフェースに規定不能性の渦の中に投げ込まれる。@mech_hayashi
2010-11-16 21:01:59そこには、得体の知れなさ、呪術性が宿っているとぼくは思うのですが、そもそもその、「得体の知れなさ」「呪術性」とは何なのか…? @mech_hayashi
2010-11-16 21:03:45「非実在にも関わらず、まるで実在しているかのよう」というのは、まあ最初は、単純におおーすげーって驚きがあるかもしれませんが、しかしこの非実在であるということがミクに感情移入をブーストする強力なエンジンなので驚きがなくなっても持続するだろう。@mech_hayashi
2010-11-16 21:06:21でまあそういう、非実在、身体性のなさ、つまり「不完全さ」こそが最大の魅力であり、それがエンジンとなって現在の量的な過剰さを生み出していると思います。だからボカロが終わるとすれば、もしかしたら、技術の進化によって完全な身体性を手に入れた時かもしれない。@mech_hayashi
2010-11-16 21:11:04んでもって、ボカロの技術の進化はどんどん進んでいるわけで、実はそれが終わりへ向かって加速しているということなのではないか?という矛盾もまた、はかないし、せつない…、と僕個人的には感じます。 @mech_hayashi
2010-11-16 21:12:51身体性を忘れた事によって崩壊していった共同体が、ここで、ボカロをインターフェースに新たな共同体が形成されていると感じます。つまり、身体性の無さも突き抜ければそこには、「もう1つの可能性」が生まれる。僕はそれを信じたい。@mech_hayashi
2010-11-16 21:16:12経済効果云々は置いておいて、単純に、圧倒的に人々がここに集まって来ていることこそが重要で、そこに、こうであるべき、という原理主義を持ち込むのは結局は崩壊へと繋がる。わけもわからず人が集まって偶有性のダイナミクスの中に投げ込まれ、何かが起こる。 @mech_hayashi
2010-11-16 21:22:28ボカロやミクは、所詮は素人の同人文化かもしれない。しかし!多くの革命は、そういったチープな周辺から起こる。パソコンが生まれたとき、一方にはスパコンがあって、人々はこんなもので何が出来るとバカにした。だが、パソコンは革命を起こした。@mech_hayashi
2010-11-16 21:24:32で、ここまで語っといて思うのは、最後に林君自身が言ったように、なんかどうでもよくなってきた、というのは、こういうボカロと生身のアーティストどっちが優れているのか?とかボカロブームの構造悪を探し出して無限後退を起こすことの無意味さがあると思う。 @mech_hayashi
2010-11-16 21:28:30つまりどっちが良いということを争点にするのではなく、現実にボカロには可能性があると同時に危うさも孕んでいるし、同じ用に生身のバンドとかだってそれは一緒で、@mech_hayashi
2010-11-16 21:32:05だから、ボカロ文化圏と普通のバンド文化圏が融合し良い部分を吸収し合える状態に進むべきなのではないか?というのが、先日ボーマスに行って僕が感じたことです。@mech_hayashi
2010-11-16 21:32:51