名将言行録まとめ

立花宗茂、高橋紹運、黒田孝高、黒田長政、後藤基次の頁。気になった部分のまとめ。
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リンク Wikipedia 立花宗茂 立花 宗茂(たちばな むねしげ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。大友氏の一族で、重臣。陸奥棚倉藩主、筑後柳河藩の初代藩主。関ヶ原の戦いで改易後、大名として復帰した武将は他にもいるが、旧領を回復した武将は宗茂ただ一人である。 なお、宗茂は晩年の名乗りであり、幾度も名前を変えているが、本項では便宜的に宗茂で統一する。 永禄10年(1567年)8月18日、豊後・国東郡筧(大分県豊後高田市)に大友氏の重臣・吉弘鎮理(のちの高橋紹運)の長男として生まれたとされる(『立斎公御年譜』)。幼名は千熊丸で
宇治丸 @uzi_unagi

宗茂十一歳の時、立花に行く。鑑連饗応し、其上壮者を召して、弓を射させて視せしめ、戯に謂て曰く、子猶幼なり、怖くは能わずと。宗茂、即ち側なる弓を挽きて弱はしと言ひ、鑑連床上に在る勁弓を請て射るに、四發三中せり。(名将言行録)

2014-08-12 15:38:16
宇治丸 @uzi_unagi

さっそく読んでみたら宗茂の弓物語の触りがあったw  11歳の時、鑑連(道雪)の食事会での話。道雪が呼んだ強者が弓を射って見せて、「怖くないか?」と茶化してみたら、ショタ茂は側の弓(の弦?)をひいて「こんなの弱い。鑑連さまの強弓を使わせてください」といって4発のうち3発的に当てた。

2014-08-12 15:42:10
宇治丸 @uzi_unagi

とびかかってきた犬を跳びすれ違いざまに峰打ちしてパパンが「そんなことができるなら切り殺せたはずだろう」と聞いたのに対して「この刀は敵を斬るためにあるのです(だから斬りませんでした)」と応えた宗茂の爽やかさに全紹運が号泣した。

2014-08-12 15:51:54
宇治丸 @uzi_unagi

これ、長政だったら喜んですっ飛んで行くよね…原文はこれです pic.twitter.com/1WCvRADbU6

2014-08-12 16:03:26
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宇治丸 @uzi_unagi

宗茂十三歳の時、鑑種(紹運)が出陣の際、冗談で「さあ、お前も出陣するのだ」と言ったところ、宗茂は畏まって「仰られずともお供したく存じますが、私はまだ強健でなく敵に逢えば無駄死にをするでしょう。あと一、二年の後には軍の一方を承り戦場へ罷り越しましょう」といった。

2014-08-12 16:02:55
宇治丸 @uzi_unagi

これだこれ!「太閤に伺いを立てて軍を発するべきか、伺わずに発するべきか」で議論になって宗茂が「兵法に≪将軍に在りては君命に受けざる所あり≫といって、太閤殿に伺いを立てていては時期を失いましょう」ってみんなをおおっといわせる話 pic.twitter.com/CNYuzamrWn

2014-08-14 16:35:13
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宇治丸 @uzi_unagi

秀吉が黒田に対して「立花すげーぞ!九州一じゃ!」って書を送ってるwわざわざw

2014-08-12 16:10:55
宇治丸 @uzi_unagi

宗茂も朝鮮で秀吉に伺わず独断で兵を出しているのに咎がないどころか戦功を褒めて馬を下賜している。 しかしながら後々官兵衛が独断で戦線を下げて、国に戻った時は激おこしたのって…戦況が悪化して焦りがあるとはいえあんまりじゃないですかって思った( ˘ω˘ )

2014-08-12 16:22:16
宇治丸 @uzi_unagi

朝夕の料理等も時に寄り殊の外差支へり で、出~料理苦手奴~ww

2014-08-12 16:35:53
宇治丸 @uzi_unagi

宗茂が汁かけごはんにするなら自分でやるから普通に出してくれって言ってるのに対して家臣泣いてるやんww

2014-08-12 16:38:57
宇治丸 @uzi_unagi

宗茂「十万石出すから来いだなんて変なこと言う者がいるのだな」 (殿、能天気なこと言ってないで真面目に考えてくださいよ…)

2014-08-12 16:41:41
リンク Wikipedia 高橋紹運 高橋 紹運(たかはし じょううん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊後大友氏の家臣。吉弘鑑理の子で、立花宗茂の実父にあたる。 紹運は法名であり、初めは吉弘 鎮理(よしひろ しげまさ / しげただ)、のちに大友宗麟の命令で筑後高橋氏の名跡を継ぎ、高橋 鎮種(たかはし しげたね)と称した。 天文17年(1548年)、大友義鑑の重臣・吉弘鑑理の次男として豊前国筧城に生まれる。義鑑の子・大友義鎮(のちの宗麟)と父・鑑理から1字ずつ賜り鎮理と名乗る。初陣は13歳で永禄4年(1561年)の第四次門司城の戦
宇治丸 @uzi_unagi

鑑種(謀反起こした先代高橋) 鎮種(これを継いだ後の高橋紹運) ・・・なまえややこしい

2014-08-19 18:44:39
宇治丸 @uzi_unagi

謀反人はあきたね 紹運さんはしげたね うなぎおぼえた

2014-08-19 18:51:31
宇治丸 @uzi_unagi

鎮種(紹運)が敵を夜討ちにする時、味方の兵らは緊張のあまり握り飯が喉を通らないでいた。これを見て「男たる者、戦場で死ぬにしても食わねば力が出ない。それでどうやって死ぬというのか」といって4つ5つ握り飯を食べて見せた。 pic.twitter.com/WD9L5mhTwx

2014-08-19 18:59:22
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宇治丸 @uzi_unagi

宝満・岩屋城主、高橋家相続の経緯 pic.twitter.com/HFRh2eixCj

2014-08-20 16:56:12
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宇治丸 @uzi_unagi

「宝満山城、岩屋城は重要な城であり才覚のない者には任せられない。しかし鎮種(紹運)は若年ながら器量があり不足はない。その上大友の流れを汲む吉弘の子ゆえ、毛利に通じた鑑種を捕え断絶した高橋家の相続人にも適任である」宝満・岩屋城主、高橋家相続の経緯

2014-08-20 16:55:51
宇治丸 @uzi_unagi

「鎮種(紹運)と宋雲院の婚儀」原文。 宋雲院は豊後一の美女ともいわれたらしい。吉川元春の話と酷似している。 pic.twitter.com/Cc2TDIds6u

2014-08-20 19:29:52
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宇治丸 @uzi_unagi

鎮種の兄・鎮信(鎮理は誤殖?)は、齋藤鎮実の娘と弟の婚約を取り交わした。戦がひと段落して鎮種が鎮実に対面すると「娘は疱瘡を患い見目が悪くなった。とても嫁にはやれない」と言われ、「婚約は貴方を名門の武家として信頼しての事、色好みのためではありません」と鎮実の娘を娶った。

2014-08-20 19:27:10
宇治丸 @uzi_unagi

秋月種実が鎮種(紹運)の守る大宰府攻略のため、鎮種の家臣を調略する。裏切りを知った鎮種は家臣を誅殺、その子に内応する振りをさせ種実の軍勢を領内に誘引。鎮種はこれを伏兵で三百の兵を十余り残して討ち果たした。 pic.twitter.com/3BCKa9TGHI

2014-08-20 20:07:14
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リンク Wikipedia 黒田孝高 黒田 孝高(くろだ よしたか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。戦国の三英傑に重用され筑前国福岡藩祖となる。キリシタン大名でもあった。 諱(実名)は初め祐隆(すけたか)、孝隆(よしたか)、のち孝高といったが、一般には通称をとった黒田 官兵衛(くろだ かんべえ)、あるいは剃髪後の号をとった黒田 如水(くろだ じょすい)として広く知られる。軍事的才能に優れ、豊臣秀吉の側近として仕えて調略や他大名との交渉など、幅広い活躍をする。竹中重治(半兵衛)とともに秀吉の参謀と評され、後世「両兵衛」「二兵衛
宇治丸 @uzi_unagi

鯛を味噌漬けにする話も元ネタあったんだなあ。 pic.twitter.com/B821mJAU75

2014-08-12 17:04:43
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