名将言行録まとめ

立花宗茂、高橋紹運、黒田孝高、黒田長政、後藤基次の頁。気になった部分のまとめ。
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宇治丸 @uzi_unagi

「鯛の切り身があるぞ!よしそれを焼いて…あれ、ちょっと待てよ、明日は二十八日だっけな?じゃあそれは料理人が俺たちや子供たちに用意したものだぞ。食べたらあいつら困るからやめやめー!」あ、かわいい(重症

2014-08-13 15:48:04
宇治丸 @uzi_unagi

隆景が「自分は熟考する人間だ」という逸話と長政に分別について語る話は同じところから来てたんだね 別の話だと思ってた

2014-08-14 10:37:47
宇治丸 @uzi_unagi

「貴方は天下の分別者といわれています。分別とはどうすることですか」と尋ねたところ隆景は「分別というのは知恵の事です。知恵をもって物事を分別するのです。世に如水殿ほどの知恵者はいません。これは私とて及ぶものではなく、如水殿の言動をお学びになれば天下の分別者となりましょう」→

2014-08-14 11:02:16
宇治丸 @uzi_unagi

「それなのに、世が私を分別者といい如水殿はそこまで言われないのは、如水殿は利発な方なので、相談を持ち掛ければ、それはそれこれはこれとその場でかたをつけますので秀吉公などのような目口鼻が利く方ならその価値も理解し取り立てて貰えるでしょうが、そうでない者は→

2014-08-14 11:02:53
宇治丸 @uzi_unagi

(如水殿が)あまりに返答が速いことをどう思われるでしょう。私などは鈍いのでよく知ったことでもすぐにはかたをつけず、まず思案してから相談しますので、急に解決しないがため分別者と言われるのです。しかし如水殿に並ぶには劣るところばかりです。→

2014-08-14 11:03:05
宇治丸 @uzi_unagi

分別者と言われたいならば、如水殿ほどの知恵をもって緊張感をもって静かに思案しなさい」と語った。

2014-08-14 11:03:10
宇治丸 @uzi_unagi

これもあってか長政は長考して断行する人になったんだけどそれを父に「お前は優柔不断だから気をつけろ」と言われちゃうという 外面で長考してるけど内心考えは決まってるのかもしれない

2014-08-14 11:05:57
宇治丸 @uzi_unagi

「国を領してよりは聊(いささか)の暇もなけれども、武芸を好み、壮年を過ぎても怠らず、剣術は疋田豊五郎景兼、富田越後守重政、砲術は稲富伊賀守祐直と、竹腰山城守療馬の術は若槻博右衛門家頼に許可を得、松本紹巴よりも連歌の傅書を授りぬ。」

2015-09-28 14:47:49
宇治丸 @uzi_unagi

領地を得てからは僅かな暇もないが、武芸を好んで壮年過ぎても鍛錬を怠らなかった。剣術は疋田景兼と富田重政、砲術(鉄砲)は稲富祐直と竹腰山城守、馬の医術は若槻家頼から免許皆伝を得て、松本紹巴からも連歌の傅書(秘伝の書)を授かった。 連歌関係ない!父ちゃんは連歌会開いてたからその関連か

2014-08-12 15:05:55
宇治丸 @uzi_unagi

@uzi_unagi 「暇ある時は、客を會(会)し、酒宴を設けて花を愛し、謡曲を謡ひ、碁を圍み、和歌連歌を吟咏し、歡を同くせしとぞ。」

2015-09-28 14:48:13
宇治丸 @uzi_unagi

@uzi_unagi そこへ入る清正の名言 「詩、連句、歌を詠む事停止たり、心に華奢風流なる手弱きことを存じ候へば、如何にも女の様になるものにて候、武士の家に生れてよりは、太刀、刀を取て死する道本意なり、常々武士道の吟味をせざれば、潔く死は仕にくきものとて候」

2015-09-28 14:49:05
宇治丸 @uzi_unagi

清正「連歌みたいな繊細で風流な心を持っていたら女々しくなる。武家なら武家らしく刀をもって勇ましくあるべきだ」 長政・忠興「あ?」 忠興も風流人(茶人)だからァ…あ、お茶は別なんですかね

2014-08-12 16:55:23
宇治丸 @uzi_unagi

作者が「子の長政は武功では父以上である。たいてい二世はぼんくらで家國を失った者が多いのに比べると、細川忠興と同じように立派な二世である」って言っているのにほろりとしたが、同時に忠興の名前出したらあかん…て思ったw

2014-08-13 15:55:15
リンク Wikipedia 後藤基次 後藤 基次(ごとう もとつぐ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。黒田氏、豊臣氏の家臣。通称は後藤 又兵衛(ごとう またべえ)。黒田孝高(如水)、黒田長政、豊臣秀頼に仕え、数多くの軍功を挙げ、江戸時代に、「黒田二十四騎」「黒田八虎」、また大坂の陣の講談や軍記物語などで豪傑な英雄として描かれ、「大坂城五人衆」の一人に数えられた。 諸説あるが、『大日本史』などによると、永禄3年(1560年)に播磨国姫路近郊の神東郡山田村に別所氏家臣の後藤新左衛門(基国)の次男として生まれた。 天正6年(1578年)、黒田
宇治丸 @uzi_unagi

孝高は大いに喜び「お前(又兵衛)は討ち死にしたと思っていた。天はいまだ私の命を絶つことはなさらず、今日の合戦は一生の不覚であると反省していたところだ」といった。 pic.twitter.com/4X2bi5AMkQ

2014-08-16 16:38:11
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宇治丸 @uzi_unagi

又兵衛「長政殿は人一倍勇猛なので、鉄砲に優れた者十五人ばかり選んで先鋒を五人ほど討ち取れば、その中に長政殿もいるでしょう」 忠興「長政を憎んで出奔したというのにそれほどまで買っているのだな。さすがだ」 長政「いや絶対馬鹿にしてるだろ」 pic.twitter.com/2xbD6LVTTm

2014-08-16 23:14:20
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宇治丸 @uzi_unagi

長政は又兵衛を恐れ戻ってきた刺客に「又兵衛相手だ、仕方ないよな。それより切腹を覚悟で戻ってきたこと感激したぞ。遠路はるばるご苦労だった」と禄を渡した。

2014-08-16 23:31:31
宇治丸 @uzi_unagi

大阪の役の後、秀忠が長政を召して「又兵衛は忠節者ゆえ、その子らは許してほしい」といったところ「たとえ又兵衛が生きていたとしても許すでしょう。それが討死と聞いては、お請け致す他ありますまい」と答えた。 pic.twitter.com/xcykHu6MBo

2014-08-17 16:30:56
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