藤田直哉氏「前衛のゾンビたち―地域アートの諸問題」、演劇の問題を中心として考えると
- sakuraikeisuke
- 6075
- 1
- 2
- 6
「(観客=参加者が)楽しくなくちゃアートじゃない!」フォビア?@nukisuke 町おこし系でパッと思い浮かぶのは良くも悪くもナデガタで(略)無意味で集約的な労働・反復を作品に持ってくるのは面白いといつも思うんだけど、なんで必ずエンタメぽくなっちゃうのだろうか。期待されてるからか
2014-09-09 01:29:08しかし「楽しくなくちゃアートじゃない!」みたいなキャッチフレーズの圧力は凄い。楽しくないと認定された瞬間に(誰によって?)それは見放され、打ち捨てられる定めなのか。。
2014-09-09 01:31:58あ、でも風桶展の時の作品、ていうか作品=アウトプットはちょっと、、、だったけど、作品=プロジェクトじたいはイイな!と思った。ナデガタ。@nukisuke
2014-09-09 01:34:32@sakuraikeisuke ドミノ倒しやテレビ局作るのも、市役所と廃校?の機能を入れ替えるのも、プロジェクトそのものはいいなって思うんですよ。いつも。その意味ではアウトプットが微妙なのも構造化されてる気がするんですけど、それが批評的に考えられてるのかどうか…ってなるとうーん。
2014-09-09 01:39:27@nukisuke 彼らの、ユルさとかテキトーなところで止めておく的なのは、戦略なのか、美学なのか、まあ「作風」ってことか、、、。
2014-09-09 01:41:15@sakuraikeisuke そうなんですよねえ。。でもナデガタ好きなファンとか、キュレーターいっぱいいるじゃないですか。ピックアップしたらちゃんと言説作るところまで責任持ちなさいよ、って思います!
2014-09-09 01:50:11そうそう、自分が見てないからあれだけど、小豆島とか枝光とかいくつかあるんだよね、ガチで地域アート系の演劇。それらが、どういう方向性で地域や住民と関わっているのか、気にはなっていたのだ。それで、藤原力とかが参入してくれるのを期待して、「まとめ」作ったというのもある。↓
2014-09-10 02:41:42昨日ツイートした、地域アートの「可能性の中心」。「共同体の脱構築」とはかつての「農村オルグ」、「都市に社会性をマウント」とは68年の「シチュアニスト的介入」(のリサイクル)的なことかも。 bit.ly/1tskyOD bit.ly/1tskVsp
2014-09-10 03:17:21.@nukisuke @sakuraikeisuke 感想有難うございます。本文に書いたのですが、京都国際舞台芸術祭のフリンジ企画の製作でni_kaさんのアシスタント(?)をやったので、演劇の場合でも「町興し」的諸問題は起きうるなぁという実感があります。
2014-09-10 04:07:12.@nukisuke @sakuraikeisuke 演劇も基本的に、観客は鑑賞するだけではなく参加型の体験をする側面がありますよね。すると、観た人しかわからないので、批評が機能しにくい。「記録」はあるにせよ、ビデオや証言はあくまで記録であって、体験ではないですからね……。
2014-09-10 04:08:44.@nukisuke @sakuraikeisuke 批評が機能するためには、作品がある程度参照可能でなくてはならない(でないと批評がまず読まれない、発注されない、批評を読んで作品を見てみる機会や正誤を読者が判断する機会がない)が、それが困難であるということの問題は類似かと。
2014-09-10 04:11:12個別の作品の「可能性の中心」を見ていない、という批判もいただきました。それは、今回の評論の性質(様々な作品や動きの背景にある思想のようなものを、星座のように浮かび上がらせる)からして、犠牲にしてしまった側面ですので、申し訳ないと思います。
2014-09-10 04:33:32地域アートの中にある個別の作品の「可能性の中心」があるのだとしたら、それを体験していない人にまでその価値(美)を伝え、説得させ、作品の価値を位置付けられるような言語を発明して、世の中に流通させるといいと思うのです。それはある意味で、個別の作品に惚れ込んだ人たちの責任ですね。
2014-09-10 04:35:51ぼくが今回の論考で行ったのは、その手前まででしかないです。まずは、その手前までしかできないという限界を指し示すことから、次の一手を考えていくことができるんじゃないか。あるいは、反論として「こんなすごい作品がある」という怒りから批評言語が発明されるのではないかという期待もあります。
2014-09-10 04:39:08@naoya_fujita @sakuraikeisuke アカデミックな演劇批評に詳しくないですが、主に戯曲分析だというのを聞くと、総合的な体験としての批評は確かに難しい気がしますね。それはインスタレーション(と、その後呼ばれるもの含む)登場以降の美術も同様かもしれませんね。
2014-09-10 07:26:14@naoya_fujita @sakuraikeisuke 話が逸れますが、言語化することへの困難が、言語化されることへの嫌悪の一助になることも大いにあって、例えば審査評を出さない方針のトヨタコレオグラフィーアワードに見られるように、ダンスにはその傾向が強い気がしています。
2014-09-10 07:29:42@naoya_fujita @sakuraikeisuke しかしその上で思うのは、参照されるべき作品がはっきり残っていなければ批評は十全に機能しないのだろうか、ということです。むしろ原理的に語り得ないものに無理矢理言葉を与える暴力的な営為こそが批評のひとつの本質なのではないか。
2014-09-10 07:35:30@naoya_fujita @sakuraikeisuke 町おこし系において批評が存在しない理由は、超絶雑駁に言うと、この批評の暴力性が地域とアーティストと批評の間に不和をもたらすからではないか…と思います。故に作品論ではなく、数値などを示しやすい外堀の分析しか残らない。
2014-09-10 07:37:45@naoya_fujita @sakuraikeisuke その結果、経済的な利潤や実利(心理的なものも含みます。おじいとおばあも満足、みたいな)を得られることを基軸にした、抑圧的な期待が加速されるのではないか、と思います。ちなみにこれは地方の話だけでなく、東京でも同様です。
2014-09-10 07:41:22