真田信繁室竹林院・大谷吉継の一族について
- sawako_a1565
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大坂城の倉管理に関わってたのはこやのほうで、失せ物がでたというので、「秀吉が怒らないように」と吉田兼見に祈祷を頼んだのが母の東殿。東殿は北政所の側近であるから、たぶんこやに泣きつかれて親子してテンパったのではないか。
2014-12-11 10:14:23で、信繁に嫁いだとしたら、この事件の後ではないかなと推測している。年齢的にみるとあるいは、初婚ではなかった可能性も高い。吉継が弟を養子にしていることを考えると、おそらく子がなかっただろうから、やはり妹のほうが無理はない。
2014-12-11 10:23:42吉継が吉治を「養子」にしたのは、おそらく病んでからだろうと推測してるので、文禄三年以降~慶長二年の間だろうと思う。それまでにおそらく子がなく、病がいっとき命に関わるほど重篤であったか、もしくは男性機能を失ったかのどちらかで。
2014-12-11 10:31:47小石か徳がこやより下であれば信繁室はそっちのどちらかかもしれないと思うけども、年齢が確定しているこやが吉継の七歳年下なので若干無理があるかなという感じ。昔の人はふつうに兄弟姉妹で親子ほど離れてたりするしまあおかしくはないけど、東殿は結構早いうちから仕事に出てるぽいしなあ。
2014-12-11 10:44:19やはり「吉継妹=こや=竹林院」説が現時点で確認できる諸史料から一番辻褄が合うようです。
既に娘説で創作してしまったどうしよう…
あっもう私が言いたいことこれです>RT そもそも創作なんだから、史実(や史料から推測される事実とおもわれる事象)との区別化がちゃんと出来てれば娘説取ってもいいんじゃないかな、とは思う
2014-12-11 10:57:07そのほかこや(=竹林院?)関連の興味深い話題など
淀殿を調べておられる方のブログで慶長5年関ヶ原後に西洞院時慶が合戦に関わった孝蔵主のために祈祷を何度か行っていること、9/24に大坂での戦後処理が無事整った事、9/26東殿(大谷吉継の母)その娘こやが捕縛される、と時慶記に記載があると書かれていた。
2014-12-11 14:53:19時慶記は自分でチェックできていないのでぐぐったけど、北政所は22日に避難先から新城に戻っている。そのうえでこの二人が捕縛された、というのは、このとき北政所の側にいなかった可能性があるんじゃないか。>RT
2014-12-11 15:31:42で、そういえば吉継は「真田の妻子」を預かっている。ただその場合、東殿が一緒にいた理由はわからないのだけど、1600年に大助が生まれていたとすると、東殿がついていた可能性もある。すごく無理やりだけど。
2014-12-11 15:35:24あと、これは知らなかったのだけど、幸家公記にも小屋の記述があるらしい。東殿の娘、秀吉に仕えていたといい、元和九年には日秀のもとに身を寄せていたという。 なんで日秀?と思ったのだけど、信繁が秀次の娘を側室にしていたことを思い出し、もしかしてこれか?と。
2014-12-11 15:38:05ただ、竹林院は娘のおかね夫妻のもとで暮らしていたようなので、そう考えるとどうだろうなとは思うのだけど、どうやらこれの出所は駿府記のよようなので、それを考えると「このときはここにいた」くらいで合致するのかも。
2014-12-11 15:50:10例の鏡については他にもこんな説もあるそう
すごい出遅れたけど、大谷が太宰府に奉納した鏡で出てくる「小石」 大谷の嫁や妹という説もあるようですが、三成の次女の光岳院では?と白川亨さんの本で読みました しかし、「詳しくは拙著の前巻で」でその前巻はかなり入手困難本のため未確認(;_;)
2014-11-27 21:18:01