真田信繁室竹林院・大谷吉継の一族について

大谷吉継の一族、特に竹林院をはじめとする一族の女性についていろいろと調べてぽつぽつとつぶやいていたところ、勉強になるお話がありましたので個人用としてまとめました。
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雨曇 @u_don_

大坂城の倉管理に関わってたのはこやのほうで、失せ物がでたというので、「秀吉が怒らないように」と吉田兼見に祈祷を頼んだのが母の東殿。東殿は北政所の側近であるから、たぶんこやに泣きつかれて親子してテンパったのではないか。

2014-12-11 10:14:23
雨曇 @u_don_

こやが北政所についてたのか秀吉についてたのかははっきりしないけども、私は秀吉じゃないかなと思っている。別に北政所でも構わないんだけど。

2014-12-11 10:16:39
雨曇 @u_don_

で、信繁に嫁いだとしたら、この事件の後ではないかなと推測している。年齢的にみるとあるいは、初婚ではなかった可能性も高い。吉継が弟を養子にしていることを考えると、おそらく子がなかっただろうから、やはり妹のほうが無理はない。

2014-12-11 10:23:42
雨曇 @u_don_

吉継が吉治を「養子」にしたのは、おそらく病んでからだろうと推測してるので、文禄三年以降~慶長二年の間だろうと思う。それまでにおそらく子がなく、病がいっとき命に関わるほど重篤であったか、もしくは男性機能を失ったかのどちらかで。

2014-12-11 10:31:47
雨曇 @u_don_

それまでに娘がいたならば、娘に婿を取らせればよいので、わざわざ「養子」をたてはしないだろうし、やはり子はなかったと考えるのが自然かな。

2014-12-11 10:35:47
雨曇 @u_don_

小石か徳がこやより下であれば信繁室はそっちのどちらかかもしれないと思うけども、年齢が確定しているこやが吉継の七歳年下なので若干無理があるかなという感じ。昔の人はふつうに兄弟姉妹で親子ほど離れてたりするしまあおかしくはないけど、東殿は結構早いうちから仕事に出てるぽいしなあ。

2014-12-11 10:44:19

やはり「吉継妹=こや=竹林院」説が現時点で確認できる諸史料から一番辻褄が合うようです。

既に娘説で創作してしまったどうしよう…

佐和子@創戦 @sawako_a1565

創作的には娘の方が(私の場合は)話(妄想)が膨らむからついそっちとっちゃいたい気分にはなる…

2014-12-11 10:38:38
雨曇 @u_don_

創作脳で考える場合はロリ嫁大正義なので、こんなこと無視して信繁にはロリを嫁がせればよいと思っています。おじロリ大正義。

2014-12-11 10:47:21
佐和子@創戦 @sawako_a1565

あっもう私が言いたいことこれです>RT そもそも創作なんだから、史実(や史料から推測される事実とおもわれる事象)との区別化がちゃんと出来てれば娘説取ってもいいんじゃないかな、とは思う

2014-12-11 10:57:07
佐和子@創戦 @sawako_a1565

「ホントは妹説に濃厚だけど創作的には娘説美味しいのでうちの創作では娘説採用してます」でいいんじゃないかな…

2014-12-11 10:58:59
佐和子@創戦 @sawako_a1565

創作やる側がいいんじゃないかな言うのもアレだけども

2014-12-11 10:59:44

そのほかこや(=竹林院?)関連の興味深い話題など

千鶴 @Tdr_moeguti4065

淀殿を調べておられる方のブログで慶長5年関ヶ原後に西洞院時慶が合戦に関わった孝蔵主のために祈祷を何度か行っていること、9/24に大坂での戦後処理が無事整った事、9/26東殿(大谷吉継の母)その娘こやが捕縛される、と時慶記に記載があると書かれていた。

2014-12-11 14:53:19
雨曇 @u_don_

時慶記は自分でチェックできていないのでぐぐったけど、北政所は22日に避難先から新城に戻っている。そのうえでこの二人が捕縛された、というのは、このとき北政所の側にいなかった可能性があるんじゃないか。>RT

2014-12-11 15:31:42
雨曇 @u_don_

で、そういえば吉継は「真田の妻子」を預かっている。ただその場合、東殿が一緒にいた理由はわからないのだけど、1600年に大助が生まれていたとすると、東殿がついていた可能性もある。すごく無理やりだけど。

2014-12-11 15:35:24
雨曇 @u_don_

あと、これは知らなかったのだけど、幸家公記にも小屋の記述があるらしい。東殿の娘、秀吉に仕えていたといい、元和九年には日秀のもとに身を寄せていたという。 なんで日秀?と思ったのだけど、信繁が秀次の娘を側室にしていたことを思い出し、もしかしてこれか?と。

2014-12-11 15:38:05
雨曇 @u_don_

ただ、竹林院は娘のおかね夫妻のもとで暮らしていたようなので、そう考えるとどうだろうなとは思うのだけど、どうやらこれの出所は駿府記のよようなので、それを考えると「このときはここにいた」くらいで合致するのかも。

2014-12-11 15:50:10

例の鏡については他にもこんな説もあるそう

どどん🛏 @ddn_hrdij

すごい出遅れたけど、大谷が太宰府に奉納した鏡で出てくる「小石」 大谷の嫁や妹という説もあるようですが、三成の次女の光岳院では?と白川亨さんの本で読みました しかし、「詳しくは拙著の前巻で」でその前巻はかなり入手困難本のため未確認(;_;)

2014-11-27 21:18:01