祖父が終戦時北京にいてソ連の捕虜になった話

@Loliida21のツイート群をまとめました。
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Lolida(ろりいだ) @Lolida21

祖父は酒が全く飲めない。しかし隊ではたまに(祖父曰く「滅多に」)酒の配給があった。飯盒の蓋の半分ほど、酒が配られたらしい。おそらく一合弱。酒の飲めない祖父は無造作に置いて食事をしたらしい。すると他の酒好きな兵から「チョコレートと酒を交換しよう」と言われた。

2015-01-01 23:50:24
Lolida(ろりいだ) @Lolida21

甘いものが大好きな祖父はたいそう喜んで、すぐに交換に応じた。その後、酒の配給があった日は別の兵舎から兵が来て酒の交換に来たらしい。

2015-01-01 23:52:12
Lolida(ろりいだ) @Lolida21

たぶん戦争中の話は出しきった……はず。捕虜の話に戻る。

2015-01-01 23:53:07
Lolida(ろりいだ) @Lolida21

ソ連の捕虜になった祖父は、イルクーツクに抑留された。そこで道路を作っていたそうだ。ロシアの中でも特に寒い地域で、気温の低い日は作業が中止になったりすることもあったらしい。凍死者も出た、とのこと。

2015-01-01 23:56:08
Lolida(ろりいだ) @Lolida21

脱走兵もいた。脱走に成功したものはいなかった。脱走をしようとした者は銃殺刑だった。死体は「その辺の河原の砂利の下に埋められた」らしい。

2015-01-01 23:58:04
Lolida(ろりいだ) @Lolida21

祖父は脱走する気はなかったらしい。脱走したとても極寒の地、南にはヒマラヤ山脈がある。「たとえ下手をして山を超えて鴨緑江に行けても、教育を受けていないから支那語を話せない。日本兵だとすぐバレる」と祖父談

2015-01-02 00:01:45
Lolida(ろりいだ) @Lolida21

祖父は字が上手い。そのために中隊でデスクワークをしていた。そのつながりで収容所でも名簿を書く役目を行った。といっても文字を書くわけでなく、ペンで名簿の罫線を書く作業。その後通訳がロシア語で名簿を書く。そこで「大日本兵器で先輩が上手な線を引いていた」ということを思い出した。

2015-01-02 00:05:00
Lolida(ろりいだ) @Lolida21

筆を二本同時に持って二重線を書く、外側だけ赤、青で線を書く、内側は細い線を使う、といった細かい仕事をした。それを見た大尉が「よくできた」というロシア語で褒めたらしい。余談だが、祖父はこのロシア語をしっかりと発音できる。

2015-01-02 00:07:45
Lolida(ろりいだ) @Lolida21

良い仕事をする祖父は、褒美として「黒くて不味いパン」を余分にもらえた。祖父はそれを持ち帰り、他の捕虜とわけて食べていたそうだ。

2015-01-02 00:08:49
Lolida(ろりいだ) @Lolida21

非常にどうでもいい話だが、この大尉は女。他にも女少尉がいたそうだ。その少尉は非常に口うるさく、掃除の時に「汚い」というロシア語を連呼し(祖父はこれも発音できる)、何度も掃除をやりなおしさせられた。

2015-01-02 00:11:03
Lolida(ろりいだ) @Lolida21

ほかに捕虜時代の話ってあったっけ……たぶんこれでぜんぶ。帰国する話するか

2015-01-02 00:12:15
Lolida(ろりいだ) @Lolida21

収容所では当然「いつ帰れるのか」という感情で満ちていた。そして当然だがソ連人が「あと何日で帰れる」なんて言わない。だから「もうすぐ帰れる」と言う。祖父は方便だと理解していたが、それでも「明日か明後日に帰れる」という期待感が先走るそうだ。そして脱走兵が出て、銃殺された。

2015-01-02 00:15:40
Lolida(ろりいだ) @Lolida21

今度こそ大丈夫。帰国する話する。

2015-01-02 00:16:30
Lolida(ろりいだ) @Lolida21

祖父が捕虜になって1年7ヶ月。ようやく帰国することとなった。全員ではなく、一部の選ばれたものだけが帰国できた。前述したように優秀だった祖父はその帰国者に選ばれた。しかし帰国するための準備にごたつくうちに、結局ほぼ全員が帰国することになった。

2015-01-02 00:18:47
Lolida(ろりいだ) @Lolida21

これは余談だが、終戦時に満州に行かず、中国の捕虜になっていれば1年以内に帰国できたかもしれない。中国では捕虜に与える食事がなく、「支那人が食っていけない」からすぐに帰国させたそうだ。しかしそこで帰国まで祖父が生き残れたかはわからない。

2015-01-02 00:20:56
Lolida(ろりいだ) @Lolida21

帰国した祖父を待っていたのは、港に押し寄せる共産主義者だった。ソ連で最先端の共産教育を受けた捕虜たちに共産主義の素晴らしさを説いていたらしい。祖父曰く「うんざりした」そうだ。

2015-01-02 00:24:39
Lolida(ろりいだ) @Lolida21

国した祖父は同僚とともに戦死した小隊長の実家へと向かった。中隊の直属だったという話と矛盾しているが、途中で配属先が変わったのだろうか?残念ながらそのあたりの話は聞いていない。  小隊長の話を聞いた実家では、歓迎されたそうだ。それまで彼の生死は不明だったというのもあるだろう。

2015-01-02 00:28:32
Lolida(ろりいだ) @Lolida21

また、戦争に行かなかった幼馴染の家にも向かった。しかし幼馴染は既に死んでいた。何故か、は私がうろ覚えである。申し訳ない。病死だったはずだ。幼馴染の父から「戦争にはカスが行くものだ」と言われた。

2015-01-02 00:30:05
Lolida(ろりいだ) @Lolida21

以上で祖父から聞いた話はおわり。戦争に行って、知人も親戚も沢山死んで、強制労働にあって、ようやく帰国した後の扱いはこのようなものだった。

2015-01-02 00:32:29
Lolida(ろりいだ) @Lolida21

だれかこの話をまとめて拡散してくれないかなあ?俺の記憶と文章は最高に拙いけど、一兵卒が体験した戦争の記録は貴重なものだと思う。

2015-01-02 00:34:13
Lolida(ろりいだ) @Lolida21

訓練時代か、あるいは支那での話な。既に実戦に入っていた?

2015-01-02 00:39:05
Lolida(ろりいだ) @Lolida21

体格のいい兵士は重機関銃を持たされたそうだ。祖父は体力こそあったが小柄なので、機関銃を持たされなかった。ただそのことで羨望などの話をしなかった。端から見ても過酷だったのだろうか?

2015-01-02 00:41:15