はじめに。
お食事編
黒豆である。 それはもう、見事な黒豆である。 「うめえ」 そして、酒である。 いつもの缶ビールやウイスキーではない。 辛口の日本酒である。 「うめえよ、おい」 古女房に語りかけているようだが、相手は女房ではないし喋っている方も旦那ではない。#落ちぬい二次
2015-01-01 23:13:05「そうですか。おいしくて何よりです」 浜風はそう言うが、やや面倒そうである。 古今東西、素面が酔客の相手をするのは面倒なものなのである。#落ちぬい二次
2015-01-01 23:15:23場所は鎮守府の官舎の一室である。廊下からは倉庫にしか見えないそこは、その実、浜風の個室であった。 部下であり年頃の娘でもある浜風の部屋であろうことか飲酒しているのはこの鎮守府の長である兵頭という男だ。 そして二人があたっているのは炬燵である。#落ちぬい二次
2015-01-01 23:17:19食堂で夕食を食べそびれ、備蓄していたカップ麺も枯渇していた兵頭がすがる最後の手段は浜風の手料理だ。 浜風は新年早々たかりですか、と呆れながらも部屋に招き入れたのだ。#落ちぬい二次
2015-01-01 23:18:45その部屋のど真ん中に鎮座していたのが、この炬燵である。この官舎も御多分に漏れず冷暖房は貧弱で、ましてもともと倉庫であったこの部屋はとりわけ冷える。そこで、ホームセンターで小さい炬燵を買ってきたのだそうだ。#落ちぬい二次
2015-01-01 23:20:30梱包された炬燵を背負ってえっちらおっちら帰ってきたのを見て、鎮守府の警衛の兵士は笑いをこらえられなかったそうだ。 ちなみにその翌日は下に敷くマットと炬燵布団を背負って帰ってきたので、警衛はまたしても吹き出してしまったとか。#落ちぬい二次
2015-01-01 23:22:14「笑わなくたっていいじゃないですか!」 と浜風は憤慨するが、表向き凛々しい艦娘が炬燵や布団を背負ってふらふら歩いていたら誰だって笑うだろう、と兵頭は思う。 そんなような事を言いながら遠慮する素振りも見せず炬燵に入ったのだ。#落ちぬい二次
2015-01-01 23:25:23そして出されたのは雑煮とスーパーで買ってきたと思しき昆布巻きや伊達巻きなどのおせち料理、そしてこの黒豆であった。 なお、兵頭は餅を焼いたり昆布巻きを温めたりしている間に自室に取って返して一升瓶を持ち込んでいる。#落ちぬい二次
2015-01-01 23:26:32「いいんですか、お酒なんて」 とやんわり飲むなと言うのに対し、 「いんだよ、今日は休みだし」 とやんわり無視して栓を開けたのだった。 「この豆、もしかしてお前煮たの?」 「もちろんです」 えっへん、と豊かな胸を張る。というか突き出す。 やっぱでけえな、と兵頭は思う。#落ちぬい二次
2015-01-01 23:28:08「時間はかかりますけど、ほとんど煮るだけですから。浸して、煮て、灰汁を取って、砂糖を入れて、煮て、出来上がりです」 「ほー。そんなもんなのか」 無論、「そんなもん」ではない。火加減を微妙に加減して何時間も煮続ける根気と愛情を要する料理である。#落ちぬい二次
2015-01-01 23:29:29「おかわり」 空になった黒豆の器を突き出す。 「ご自分でどうぞ」 炬燵から出たくないのは浜風も同じことである。 しぶしぶ炬燵から出て鍋の蓋を開ける。 「お、まだ結構あるんだな」 器に山盛りになるまで盛り付ける。#落ちぬい二次
2015-01-01 23:32:00「なんだこれ。釘入ってるけど?」 「あ、釘はそのままにしておいてください」 「なんで? あぶねーじゃん?」 「釘を入れておくと綺麗な黒になるんです。それ用の鉄製のナスとかあるんですけど、釘なら工廠で貰えるので」#落ちぬい二次
2015-01-01 23:33:46「ふーん。どっかのメスゴリラなら鉄のナスでも平気で食っちまいそうだな」 「メスゴリラって誰の事です?」 「いや、気にすんな」 そしてそそくさと炬燵に入ると手酌を始める。#落ちぬい二次
2015-01-01 23:35:17「足はあったかいけど、やっぱ隙間風が冷えるな」 実は酒を飲んで体温が上がると感じるのは体幹の体温が増大した血流によって末端に運ばれるからである。だから実は凍えた時に酒を飲むとむしろ凍死の危険性が増す。#落ちぬい二次
2015-01-01 23:37:00さすがにこの部屋で凍死することはないが、それでも備え付けの貧弱な空調と炬燵だけというのは少しきつい。 「でしたらいいものがありますよ」 浜風はクローゼットを開いてもこもこした何かを取り出す。広げてみると、矢絣の柄の紺色のどてらだった。#落ちぬい二次
2015-01-01 23:38:21「俺が着ていいの?」 「ええ、安くなっていたので買ったのはいいんですが、やっぱり大きすぎて」 タグを見ると紳士用LLサイズである。浜風の適正サイズは精々婦人用S、バストを基準にしてもMがいいところだ。#落ちぬい二次
2015-01-01 23:40:49「私はこれで平気ですから」 ロッカーからジャージを取り出して肩にかけた。 部屋の主である少女にそんな恰好をさせて客で年上で上官でもある自分がどてらを着るなんて常識ではありえないのだが、一升瓶を半分近く空けていい感じにその辺の配慮が飛んでいるのが今のこの男である。#落ちぬい二次
2015-01-01 23:43:43「おう、んじゃ借りるわ」 袖を通すと測ったようにぴったりであった。 「こないだのピンクのスキーウェアといい、安さだけで買う癖は直した方がいいと思うぞ」 「失礼な。これでも値段と質と需要のバランスはちゃんと考えているんですよ」#落ちぬい二次
2015-01-01 23:45:40「だからってこれ、お前じゃ着るってよりも包まるサイズだろ」 「いいんです!大は小を兼ねますし!布団代わりになりますし!」 「及ばざるは過ぎたるより勝れり、って言葉もあるけどな」 小声で呟いて、懐から煙草を取り出す。#落ちぬい二次
2015-01-01 23:47:26「禁煙です。お酒までは大目に見ますけど、煙草は駄目です」 「おっかねーの。不知火みてえ」 不知火という名前を聞いた浜風の目に少し警戒の色が浮かぶ。 「外でならいいです。煙草とお酒を持って外に出ますか?」#落ちぬい二次
2015-01-01 23:49:35兵頭は渋々、煙草を炬燵の上に置いてまた酒のコップを持つ。 「酌して?」 「お断りします」 「ケチ」 「私も飲んでいいなら注ぎますが」 「わり、手酌にしとく」#落ちぬい二次
2015-01-01 23:50:45浜風はノンアルコールビールでさえ泥酔できて、そのうえ酒癖が非常に悪いというのを思い出して自分で一升瓶から注ぐ。さっき封を開けたばかりだというのに既に三分の一程に減っている。 「そういやさ、艦艇勤務がねえから知らねえだろ」 酔客特有の要領を得ない質問である。#落ちぬい二次
2015-01-01 23:53:08