【メディア芸術祭2015シンポジウム】【第1部】「美術・歴史・日本―自作を語るための歴史とは」出演 中ザワヒデキ 美術家 大澤 真幸 社会学者/THINKING[O]主宰 モデレーター室井 尚哲学者/横浜国立大学教授 参考ツダリも
近代美術史テキストは26歳のものだが、その姿勢は50歳になる今でも変わらずそれは現代美術史日本篇につながり、このシンポジウムへつながっている、と。
2015-02-15 13:36:16大「自作で歴史を語ることについて。社会学者は自分なりの歴史を語れる。人文社会学系はそうだ。歴史をしらず学問はできない。ある文化として自作をするに歴史を語れないできない。現代美術史日本篇でもいつ中ザワが出てくるか気になっていて、
2015-02-15 13:38:51大「自作で歴史を語ることはする必要あるものだが、だれもなかなかしないが、中ザワはしておりまた歴史の中で自分のことも相対化して記述している
2015-02-15 13:41:15大「何が芸術かわからない。 素朴な時代でなくなった。 美しいものを作れば美しいとならない。 戦間期から始まった。 日本では戦後 美術史といっても何が対象かわからない。 イラストレーションが無視されていたが今重要な領域となるなど、だからこそ歴史を語る必要がある。
2015-02-15 13:41:56大「循環史観、よく考えると独特な史観だ。前衛自体が反でありアンチテーゼだ。にもかかわらずテーゼ。それに対しアンチテーゼとして反芸術となりしっちゃかめっちゃかになり多様性に
2015-02-15 13:42:55大「美術自身が自分を定義するのに悶絶している気がする。また3つフェーズがあるが、どれを最初に取ってもいいはずだ。東が正反合、黒瀬が良い悪いと言ったが、僕なら多様性からスタートさせる
2015-02-15 13:44:10大「多様性で実験が起き、そして前衛が出てくる。そのキャンセルとして反芸術がでてくる、と。そして多様性へ。とかんがえるかな
2015-02-15 13:44:56中ザワ氏が設定する循環史観。「前衛→反芸術→多様性(以下繰返)となるが、前衛はそもそもオーソドックスに対するアンチテーゼで、この循環史観はアンチテーゼがテーゼとして出発している」という大澤氏の指摘。ここで抜け落ちているのは前衛が生まれる背景としての公募展であり、画壇の存在だろう。
2015-02-15 13:46:16大「はじめから美術があるのでなく、美術家自身が定義をめぐって戦っている。そして外に対しどう考えているか気にになる。 明晰な循環史観が美術に内在するものであれば、それは社会、様々な文化的想像力と抗争しながどうなるか。
2015-02-15 13:46:34中「方法主義を1997年から始め、音楽・詩人と組んで、足し算の総合芸術でなく並置する厳密な総合芸術を意図した。そこで総合芸術史が書けると考えていた。
2015-02-15 13:48:11中「美術ではダダ、音楽は無調・多調、詩でもオノマトペなど意味の離脱が出た。これは戦間期に同時に出てきたが、それぞれ別に記述されるものでなく、何か共通する理念がありそれに基づいておこったとそれに関する総合芸術史がかけるはずだ
2015-02-15 13:49:35室「大澤真幸は虚構の時代と著書があり、時代にラベルをつけることで時代・政治・社会に繋がることがあると考えてきた人だ。それを含めてか?
2015-02-15 13:51:20大「先に言われてしまったが、日本の戦後史は理想の時代から始まり虚構の時代になり、そして不可能性の時代になっている。 多様性の時代から始めればと考えたのはそのためだ
2015-02-15 13:51:55大「70年代までが理想の時代。95年までが虚構の時代、それ以降は不可能性の時代。循環史観のそれぞれサイクルでは特徴あるはずだ。それは美術だけでなく政治あるいは我々の歴史観でなにか見えてくるものがあるはずだ
2015-02-15 13:53:02室「細かい議論にはちょっと踏み込みたくないが、美術史はクラッシクとバロック、抽象・感情移入など、二分法三分法に組み込もうとする歴史記述スタイルはある。
2015-02-15 13:55:40室「またここで扱われる美術が本当に美術かとう問題がある。 日グラ以降の例えばパルコキノシタなど、彼らを重視するが、当時美術でないし、 中「今でもそうです 室「またメディアアートも入ってない
2015-02-15 13:56:39