- misonikomioden
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少し説明が必要だろう。先にも触れた通り、1980年代米国のシミュレーショニズムは、すでに「ハイ・アンド・ロー」というヒエラルキーを前提とした保守的芸術であった。
2015-03-13 20:35:25もしもその先へと進もうとするならば、芸術家はなによりもまず、この「ハイ・アンド・ロー」という自己意識を解体しなければならない。けれども、「ハイ・アンド・□一」の弁別は、実はファインアートの自己定義ですらある。
2015-03-13 20:35:35としたら、そこから先に進むためには、彼は、いきおいアートの外部に出ざるをえない。もっとも、米国のシミュレーショニストでそれを行なうものはいなかった。方法論的には可能であっても、アーティストでなくなってしまっては、元も子もないからだ。
2015-03-13 20:35:45ところが、中ザワが行なったのは、ほかでもないこのことであった。「美術」をいまあるここから先へと論理的に押し進めるために、あえて美術家でなくなること。大衆文化からの引用というポップアートの自意識を中和するために、
2015-03-13 20:35:56みずからが大衆文化の送り手そのものになること・・・まさしくこれは、方法主義的な意味での「イラストレーター」の登場であった。
2015-03-13 20:36:04引用 「方法主義」の活動で知られる美術家の中ザワヒデキは、1980年代に初期アクリル絵画群を制作したのち、1990年から7年間、日本初のヘタうま・CGイラストレーターとして多産な活動を繰り広げていました。
2015-03-13 20:40:27コンピューターがまだ有り難かった時代に果敢にもそれをオチョクった脱力系の作風は「バカCG」と呼ばれて人気を博し、関係各界に大きなインパクトを与えましたが、1997年には作家が美術家へ転進し、活動は封印されました。
2015-03-13 20:40:36イラストレーター以降は、本当にイラストレーターとして雑誌の仕事を受注し制作をしていた。そのため作品まとまって残っていない。
2015-03-13 20:41:39バカCGは線のギザギザが新しいマチエールであるとして重視し描いていた。 初期のソフトはドットが一つ一つ指定できたのだ。
2015-03-13 20:43:45その後新しいソフトを使うと勝手にアンチエイリアスがかかってしまうようになるが開発者が意図しない使用をすることで新しいマチエールをだしたりした。アンチアンチエイリアス。
2015-03-13 20:43:48堀浩哉の言葉で「今美術家と呼ばれてるならそこが戦場だ」がある。 それが美共闘としてのアジビラで書いているもので、それは今でも彼の胸あるものだ。 しかしこの「美術家」自体がここでは成り立たなくなる。
2015-03-13 20:47:52「小沢剛、膨大な未発表作品群を抱えていた会田誠が随行し、・・・」とあるが、彼ら2人はパシリとして同行していた。 中ザワも彼ら2人を含め、韓国の中村と村上展に随行した人たちと仲良くなった
2015-03-13 20:50:41