- misonikomioden
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6c 東京シミュレーショニズム(1)村上隆と中村政人 6d 東京シミュレーショニズム(2)小沢剛と会田誠 他にも多くの人達が関与したが、その中心である彼ら四人で語りたい
2015-03-13 20:22:51森村泰昌の違和感は東京視点だ。 石原友明が関西ニューウェーブは重要。 その相関関係で森村があのような作品を出す土壌があり、また中原浩大による作品にも繋がるが、しかし伝聞でしかなく直接見ているわけではない。
2015-03-13 20:24:35「ラデカルな意志のスマイル」は全て写真だが、 写真でセルフポートレートは石原友明が早い。 しかし折衷的つまり80年代ニューウェーブのインスタレーション的 でありつつ、それを写真それもタブローとして切り出したのが森村
2015-03-13 20:26:02関西でニューウェーブを担った者とその後のシミュレーショニズムを担った者は重なるが、東京では断絶する。 つまりパレルゴン的な人は言葉を持たずそのまま消え、またBゼミはパルコ・日グラはダメと接点を持たなかった。
2015-03-13 20:27:02滋賀県立美術館では中ザワが紹介されたが、ほかの関西系の作家には全く触れず椹木野衣は中ザワや飴屋法水を中心に述べているのは、決して悪意があるわけでなく、その背景を考えた方がいい。 中ザワが関西に知られてなかったのでこの展示で知られることができた
2015-03-13 20:30:31引用と複製の臨界点 kousin242.sakura.ne.jp/wordpress/ddd/… (誰かが図録の文章を文字起こししたサイトらしい
2015-03-13 20:31:22引用 「中ザワヒデキ」という存在 ある意味、中ザワヒデキほど、日本のシミュレーショニズムをトータルに体現した存在もいないであろう。わたしが彼の活動を知ったのは、
2015-03-13 20:31:51友人の紹介で渋谷の飲み屋で中ザワと初めて会ったとき、そこで手渡された一冊の自作本『近代美術史テキスト』(トムズボックス、1989年)(図1)によってのことである。
2015-03-13 20:31:55いまでは「方法芸術」を標榜するれっきとした「美術家」である中ザワであるが、当時はまだ美術家とは名乗っておらず、アート界とイラスト界を橋渡しするような、それでいていずれにも属していないような、
2015-03-13 20:32:04何とも定義不能な存在であった。もっとも、そうした中間的な存在は、日本グラフィック展で日比野克彦がデビューして以来、わが国ではある厚みを持った層として認知が進んでいたから、
2015-03-13 20:32:19わたしも最初は、中ザワをそうした類のひとりであると考えていた。けれども、その認識はなかばは当たっていたが、なかばは外れていた。
2015-03-13 20:32:22というのも、中ザワは、他の無意識的な「中間層」とははっきりと異なって、確信犯的に・・・ということはつまり方法主義的に・・・そこにいることを選んだ、おそらくは最初の「美術家」であったからだ。
2015-03-13 20:32:39どういうことか。すべては、あらかじめ『近代美術史テキスト』に書かれていたことの実践にほかならない。副題に「印象派からポストへたうまイラストレーションまで」と記された、全編手書き/手描きのこの美術史の教科書=作品は、
2015-03-13 20:33:0320世紀の美術の展開が、いかにしてモダンからポストモダンに至るかを、イラストとテキストだけを頼りに、簡潔かつおもしろく解き明かしている。それだけでもたいへんなことだが、
2015-03-13 20:33:20本書はそれに加え、そうした歴史の先端部で、いま、作家・・・それも極東のわたしたち・・・に残された選択肢として何がありうるかを、明解に提示していた。
2015-03-13 20:33:27当時、シミュレーション・アートは、欧米の美術史が生み出した自己言及的な最終地点であり、歴史を引用するその立ち位置がポストヒストリカルである以上、原理的に言って、美術史にその先はないものと考えられていた。ところが本書は、
2015-03-13 20:33:52歴史の行き止まりというべき米国のシミュレーション・アートの出現をもって美術史の括りとせず、その後に、やすやすと章立てを行なっていた。
2015-03-13 20:34:11モダニズムに対する批評的換骨奪胎というべきシミュレーション・アートの後・・・いわば歴史が終わった、さらにその後・・・を引き継ぐのは、ほかでもない日本のイラストレーションであるというのだ。
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