- S_u_i_t_o_u
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古代ギリシャにおいて彫刻の美的探求が幾何学の発展を促した様に、芸術が我々の暮らしと切り離されており不必要かといえば、そうとも言い切れない。歴史的な目で見れば
2015-04-09 01:25:51深夜なので、少し突っ込んだ話をすれば、アドルノ的には、その幾何学性こそ批判すると言った方がよろしいのではないでしょうか。 twitter.com/dd13shin/statu…
2015-04-09 01:33:15何の為の表現かなんて問いは不毛だと思います。経済的な利潤の追求や合理主義ですら、ではなぜ合理的ではいけないのか、という問いにおいて(マックス・ウェーバーが論じた様に)宗教的な結論を出さなくてはならなくなる。
2015-04-09 01:36:39「線遠近法を適用された絵画で、まず問題になるのは、その合理性が画面外部の視点、つまり画面を観る者の視点によって、はじめて保証されるものであるということだった。単純に、その絵を観る視点を移動しても、あるいその絵自体が別の場所に移動しても(続)」
2015-04-09 01:37:30「隠喩」を生産する行為は確かに不毛だろう。しかし、ではなぜ「隠喩が存在するのか」は、事実として隠喩は存在するのだから、基本的には問題提起にはなる。 twitter.com/dd13shin/statu…
2015-04-09 01:40:39「その絵が置かれる現実の空間とその絵の関係が変化させられれば、たちまちそれは不合理な姿に変貌してしまう事にもなる。言いかえれば絵を描く者の視点と観る者の視点が一致するという条件が保証されることによってだけ、整合性は確保されえた。」ルネサンス 経験の条件
2015-04-09 01:43:48@Consav455 アドルノはここでいう「幾何学性」を進歩主義と結びつけていたきらいがある気がします。現代の経済主義に基づいて芸術の必要性を批判する論に対し、経済主義の内側から反論するならば、と考えたのが上の例えですね。外側から反論するならアドルノ的な論調になるかと思います
2015-04-09 01:44:17そうそう。電車の走行音を道端で聞けば「騒音」ですが、それを録音しコンサートホールで流せば「芸術」になる。問題はその表現の内容ではなくて呪術的な装置が整っているか否かなので、芸術は社会から隔離されている様で実は社会的なものでしか無いんですよね。
2015-04-09 01:49:45@dd13shin 進歩主義というか、単一性―隠喩―主観の結婚詐欺に対して、これは詐欺だ。と言ったのがアドルノだと俺は思います。現実を客観的に描写しようとする写実が、遠近法の介入によりたちまち、読者の主観によって隠喩が産まれる。この「隠喩」をアドルノヘーゲル―ハイデガーに見た。
2015-04-09 01:50:08私には表現が、特に音楽は「隠喩」であるとは思えないのですが、この話題は絵画の人と写真の人、音楽の人で話がかみ合わない箇所なので難しいですね…
2015-04-09 01:52:21「隠喩」は基本的に「批評」と呼んでも宜しいでしょう。正確に言えば実名批評ですな。例えば我々は今日の世で漱石を学校で教わりますが、その漱石というのは実を言うと、江藤淳によって読解された漱石であり、「漱石」そのものでありはしない。
2015-04-09 01:54:21@Consav455 なるほど。ふと思ったのが、スーパーリアリズム絵画において意図的に用いられる違和感こそが「隠喩」の現前なのかもしれない
2015-04-09 01:55:32@Consav455 もし音楽における「隠喩」を想定するならそれこそ12音音律なのかもしれないですね。物理的な波動と人間の知覚する音高の差異があり、後者にもとづいて音楽が書かれて来た歴史が結婚詐欺なのかもしれないw
2015-04-09 02:04:30@dd13shin というか、情景描写があれば、それはすべて隠喩ではないでしょうか。私とあなたの聴いてる音は同じ音。という意識こそ、隠喩―遠近法なので。
2015-04-09 02:09:34@Consav455 そうですね。なのでシュトックハウゼンが「音楽は作曲家の前に(他者として)出現する」と断定した様に、現代の作曲家はもはや「音」を捉えるのではなくより物理的に波形や振動を操作する方向に進んでいると思います。音楽における構造主義は物理主義と言い換える事も出来るかも
2015-04-09 02:16:23@dd13shin で、ここからが俺の問題なんですが、要はその構造主義を意識的にやる事で「構造主義」自体が批評性を持ってしまう。「そういう事をわかってる俺」という隠喩性が生まれる。あらゆる所で隠喩は生まれるのであって、ではなぜ生まれるのかというのがさいきんの疑問でですね。
2015-04-09 02:20:46@Consav455 なるほど。広義の「表現」は自己認識や志向性においてあるものなので、それらが拡大されたものが「隠喩」なのではないかと。なぜか、は考えた事ないのですが、我々の在り方そのものだから、という結論しか出ない気がしてしまいます
2015-04-09 02:28:52@dd13shin しかしアドルノにせよドゥルーズにせよ、そういうものを批判はしてきてが再検討という意味での批判はしてこなかったし、尚且つ人間は幻想の中で生きている動物なので、これに向き合わないってのはどうもおかしいんじゃないでしょうか。
2015-04-09 02:31:44@Consav455 そうですね。差異を見出してもその差異が何故あるのか、という「本質的」な問いはナンセンスとして退けられる印象があります(私は哲学プロパーでは無いのでよくは知らないのですが…)。面白い問いだと思います。進展があればまたお話を聞かせて下さい。
2015-04-09 02:37:05ヘーゲル弁証法にしてもデリダの差延しても、そこにあるのは既存の構造の分析であり、何故それがあるのか問うには勇気がいると思われる
2015-04-09 02:39:12@Consav455 隠喩を関係性それ自体だとするならば、なぜ…の問いは必然的に本質論的になる。そうでなければ超越的な別の本質を仮定するしかない。もちろんここでいう「本質」の定義もまた同一軸に基づく関係性を含んでいるのと思うのですが
2015-04-09 02:45:14