教理学としての神道

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fukuebisu @fukuebisu_tao

『道教と日本思想』福永光司著‥(徳間書房刊) p54~‥Ⅱ鬼道と神道…中国古代の宗教思想と日本古代… ・中国古代宗教思想誌の研究はなぜ必要か ・中国の神仙道教と「天皇」 ・伊勢神宮のご神体はなぜ鏡か ・日本古代研究の再検討を ・中国古代思想史の四重構造 →

2015-04-05 09:56:25
fukuebisu @fukuebisu_tao

@fukuebisu_tao →『道教と日本思想』福永光司著‥(目次続き) ・シャーマニズムとしての鬼道 ・教理学としての神道 ・「鬼道」という言葉の意味変遷 ・「神道」という言葉の意味変遷 ・神道と「三玄(易・老・荘)」の学 ・仏教一辺倒の日本古代宗教思想の研究 →

2015-04-05 09:58:26
fukuebisu @fukuebisu_tao

『道教と日本思想』福永光司著‥(徳間書店1985年刊) p54~92‥Ⅱ章 鬼道と神道…中国古代の宗教思想と日本古代‥より p74 ・教理学としての神道 →

2015-04-08 11:49:29
fukuebisu @fukuebisu_tao

→ 中国仏教が仏陀の教えを神道として理解し強調するのは、中国の伝統思想と融和を図るためということもありますが、それよりもむしろ、中国出身の沙門たちの学問的な教養がなんといっても儒学と老荘の学を主要な基盤としていた、という事情が考えられます。 →

2015-04-08 11:50:22
fukuebisu @fukuebisu_tao

→例えば、東晋の慧遠の有名な、『沙門不敬王者論』の中に、「神道」は大変精緻であり、「理をもって」すなわち理論的にその宗教的な真理をつきつめていくということは不可能であるというふうな議論があって、その場合、仏教をストレートに神道と見ているわけではありませんが、→

2015-04-08 11:52:01
fukuebisu @fukuebisu_tao

(*インド仏教の漢語訳者として有名な‥東晋の慧遠、『沙門不敬王者論』の中にあらわれる、「神道」について‥) →前後のコンテキストからいえば、ここで彼(*慧遠)のいわゆる神道は、仏教の宗教的な真理をも当然含み得ます。→

2015-04-08 11:56:32
fukuebisu @fukuebisu_tao

→それからまた、同じく慧遠の場合、仏教の因果応報を論じて、「神道」というものには霊妙な一つの働きがあり、悪いことをした者、つまり悪行(罪業)のある者には、悪い報いを与える。良いことをした者にはいい応報をを与える。その道理というものは、寸分の狂いもない。それが神道なんだ‥→

2015-04-08 11:58:43
fukuebisu @fukuebisu_tao

(*インド仏教の漢語訳者として有名な‥東晋の慧遠の、『沙門不敬王者論』の中にあらわれる、「神道」とは‥) →というふうな説明をして、仏教の因果応報の道理を根底から支える宗教的な真理、もしくは真理の世界を、神道という言葉で理解している。→

2015-04-08 12:01:38
fukuebisu @fukuebisu_tao

→それからまた(*仏教の漢語訳者)僧肇の『筆論」の場合でも、例えば、仏教の経典に有余涅槃(ゆうよねはん)、無余涅槃というようなことが説かれているけれども、その無余涅槃というのは、「神道の妙称」であるというふうにいって、やはり、仏教の究極的な真理を神道という言葉で理解している→

2015-04-08 12:04:33
fukuebisu @fukuebisu_tao

(*インド仏教を漢語訳した‥慧遠や僧肇は漢訳にあたって、たとえば「神道」というような、古代中国の宗教思想を用いて、インド仏教を解釈している‥) →こういった例は、魏晋の頃、あるいは六朝期全体を通じて中国仏教教理書の中に少なからず見られます。→

2015-04-08 12:11:33