太郎太刀と次郎太刀と真柄切(青木兼元)と痣丸【6/20更新】

熱田神宮の太郎太刀と次郎太刀の来歴について 太郎太刀の持主とされる真柄直隆を倒した人と真柄切 について資料と妄想の忘備録 6/20 太郎太刀の奉納者、山田さんの詳細について追加
45
前へ 1 2 ・・ 9 次へ
フラワードクトリン@東5テ33a @flowerdoctrine

なお、小瀬甫庵の信長記とは逆に、事実を淡々と羅列してあるだけなので読み物としての評価は低いが、歴史史料として評価が高いのが太田牛一の信長公記。実はこの二つ、両方『信長記』で、区別をつけるために太田の方を『信長公記』と呼び、逆に小瀬の方を『甫庵信長記』と呼ぶことがある

2015-04-18 07:00:06
フラワードクトリン@東5テ33a @flowerdoctrine

それから、小瀬甫庵の信長記は、太田の信長記に、独自解釈を加えているだけなので、かなりの部分で文章が丸被り。題名も全く同じ。江戸時代、太田の信長記がマイナーだったのは、小瀬甫庵の信長記が改訂版だと思われていて、わざわざ古い方の太田本を買う人が少なかったからだろう説があって泣いた。

2015-04-18 07:06:58

※補足
太田牛一の信長記を、事実をだらだら羅列してばかりでつまらない、と評したのは小瀬甫庵その人だそうな

青木一重と真柄切(青木兼元)

フラワードクトリン@東5テ33a @flowerdoctrine

小瀬甫庵の話はさておいて、真柄直隆を討取った人物に話を戻す。信長公記では青木一重となっている。彼は、元は松平家の家臣で、家康の元を出奔し、丹羽長秀に仕えた。そう、持主は目を患うと言われた痣丸、その最後の所有者で、痣丸を熱田に奉納した人である。

2015-04-18 01:38:43
フラワードクトリン@東5テ33a @flowerdoctrine

さて、丹羽長秀は信長の家臣で尾張春日井郡児玉出身。一方、太郎太刀を奉納した山田甚八郎吉久は、尾張春日井郡熊野庄の人で、居住地から当時近隣に分布していた美濃源氏系統山田一族と思われる。つまり山田も武士で、出身地の近い丹羽やその家臣の青木に仕えて、姉川に参戦した可能性がある。

2015-04-18 01:55:30
フラワードクトリン@東5テ33a @flowerdoctrine

また、真柄切として現在伝わっているのは、青木一重の所有していた青木兼元の事で、刀匠孫六兼元(2代目兼定の義兄弟もしくはマブダチ)の最高傑作とも称えられる。現在は重要文化財。なお、孫六兼元は美濃国の人で、青木の地元もまた美濃国である。一方、匂坂兄弟は今の静岡辺りが地元である。

2015-04-18 02:08:25

※現在は誤:重要文化財→正:重要美術品

フラワードクトリン@東5テ33a @flowerdoctrine

真柄切(青木兼元)の生みの親である孫六兼元は、初代兼定の弟子で、歌仙兼定の生みの親2代目兼定(之定)と義兄弟の契りを結んでいたという伝説がある。ただ、この辺(美濃国)の刀工は兼の字を用いることが多いし、この二人は関鍛冶の代表格でもあるので、そういう伝説が生まれるのも不思議ではない

2015-04-18 07:33:56
フラワードクトリン@東5テ33a @flowerdoctrine

伝説に従えば、真柄切は歌仙兼定の親戚というか、ご近所さんと言うか。 実装された暁には、まあ歌仙の古い知り合いか幼馴染になるかもしれません。

2015-04-18 07:41:10
フラワードクトリン@東5テ33a @flowerdoctrine

なので、真柄切の件にしろ、太郎太刀を奉納した山田にしろ、青木一重が真柄親子のどちらかを斬った、と考える方が、その後の展開に合点がいくのである。 そこに、青木か丹羽の一味に(丹羽と出身地の近い)山田がいて、その縁で太郎太刀を貰い受けたのではないだろうか。

2015-04-18 02:20:05
フラワードクトリン@東5テ33a @flowerdoctrine

あと、小瀬甫庵の信長記の方に、匂坂兄弟の一味として山田宗六なる人物の名が登場するのは、真柄太刀の奉納者として記録に残る山田甚八郎吉久から逆算して、生み出されたキャラクターだからではないか、と思う次第。

2015-04-18 02:25:29
フラワードクトリン@東5テ33a @flowerdoctrine

そういや、坊主になって現役引退して養子に家督譲ったのに、家康に呼び出されて領地安堵や加増をしてもらった青木一重さんには、養子が二人います。

2015-05-08 23:21:26
フラワードクトリン@東5テ33a @flowerdoctrine

一人は、京で人質を取られ足止めされた青木一重の代わりに家中の指揮を取って大坂の夏の陣に参戦していた正重。大阪後、この事を憚って正重は廃嫡され、重兼が養子になります。 ところが、廃嫡された正重は、その後、一重の後を継いだ重兼を助けて積極的に藩政に携わっています。

2015-05-08 23:25:05
フラワードクトリン@東5テ33a @flowerdoctrine

という事は、青木家内部では正重廃嫡に関して、仲違いではなく、計算づくで青木家存続のために動いていたと考えられます。真田家が、兄弟同士で付く派閥を変えたことで、片方が必ず生き残ったのと同じような物ではないかと。

2015-05-08 23:32:02

青木一重、正直過ぎてお話としては面白くない事案

フラワードクトリン@東5テ33a @flowerdoctrine

@chagunet10 ちなみに、信長公記で直隆を討取ったとされる青木さんに関して、古田織部が随分後になって『お前、あの真柄討取ったんだってすげえな!話聞かせて!どうやったの?』と聞かれて、相手がたまたま傷を負って疲れ切ってるところに出くわしたからと答えてるのが何ともガチっぽい

2015-04-18 01:42:19
フラワードクトリン@東5テ33a @flowerdoctrine

こう、武勲話というのは、敵を一刀のもとに切り伏せたとか、圧倒的な強さの相手を機知で鮮やかに倒したとか、そんなワクワクする展開を望んでいるのであって、相手が傷だらけで疲れてた所に出くわした、という青木の説明は正直なんだけど、多分『お話』としては求められてない。

2015-04-18 07:18:31

刀剣達から見る、熱田神宮の大宮司千秋家の歴史、そして織田家などとの関り

フラワードクトリン@東5テ33a @flowerdoctrine

太郎太刀の奉納時熱田の大宮司だったのが、当時10代半ばの千秋季信。 その父親は季忠といい、熱田の大宮司でありながら、信長に武将として仕え、永禄三年(1560)かの有名な桶狭間で先陣を切って見事な討死を果たします。この時、季信は母親のお腹の中でまだ生まれていなかったという話もあり。

2015-04-29 18:57:15
フラワードクトリン@東5テ33a @flowerdoctrine

こうして、季信が物心つく前に父親は死にました。季忠は信長配下の武将でもあると同時に、熱田の大宮司でしたから、大宮司の職務を誰かが引き継がねばならない。しかし、嫡子の季信は赤子で、宮司の仕事が出来る訳もない。

2015-04-29 19:04:46
フラワードクトリン@東5テ33a @flowerdoctrine

そこで、季信が元服(成人)するまで、千秋家所縁の男性達が大宮司の職務を代行、幼い季信の教育や補佐にあたったと考えられます。 季信の元服頃にお家争いがあり、近辺2年ほどの記録が散逸したのは、成人した季信に大宮司を継がせるか、当時の代行役を正式な大宮司とするかで揉めたからでしょう

2015-04-29 19:15:35
フラワードクトリン@東5テ33a @flowerdoctrine

(他にも揉めた原因ありそうですが、おそらくお家争いの焦点は、大宮司職と、だれが千秋家の家督を継ぐかだったでしょう)

2015-04-29 19:31:06
フラワードクトリン@東5テ33a @flowerdoctrine

さて、そもそも熱田の大宮司である千秋家が何故信長に仕えていたか。 平安末期以降、武士の台頭や世の乱れなどで治安が悪化し、寺社は自衛のために自前の武力を持ち、やがてひとかどの武装勢力と化して行きます。 熱田もそのような道筋を辿り、信長の父の代には結構な武力集団でした。

2015-04-29 19:30:06
フラワードクトリン@東5テ33a @flowerdoctrine

さて、半ば独立武装勢力化していた熱田とその大宮司が、信長の父信秀配下になったのは、天文年間の初め頃です。 というのも、天文元年に、信秀が那古野城(後の名古屋城)を今川氏豊(義元の弟)から奪取したからと思われます。 そして、熱田神宮は名古屋城と目と鼻の先です。

2015-04-29 19:42:58
前へ 1 2 ・・ 9 次へ