- oukaichimon
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寺子屋で教えてるのは、都市部だと、江戸が平民が半分以上、武士が半分のやや下で、神官や僧侶はまれ。京都が平民と僧侶が半々で武士はまれ。大坂はほぼ平民。これが都市外だと、武蔵郡部、山城郡部が平民が半分の下で、僧侶が半分以上。摂津郡部だと僧侶が半分より少なく平民が半分以上。
2015-05-13 16:39:53都市の外だと、やはり「寺子屋」の名の通り、寺で僧侶が教えてるのが多い。また授業料について、「一般庶民が払えるはずがない」と思い込みの激しいのが言い張ってたが、「作物を授業料として納めることもあった」とのこと
2015-05-13 16:41:31nhk.or.jp/ecochan-blog/4… 山村が自活できるだけの豊かさがあったというのは概ねその通りなのですけど、「お金に頼らず生きて行ける力を持つ」というのは実は違って、江戸時代時点からむしろ山の豊富な産物を商品にして広域の貨幣・流通経済と結びついていた
2015-05-13 23:09:06「まだ信長や足利幕府の方が先進的だった」と勘違いされるような制度になった背景に貨幣経済が崩壊しかかっていたと言う事情があるのは確かだけど、自力で通貨を発行できるまでに回復できたときに税法は変えられなかったのかな?と言うかねてからの疑問がまた頭をもたげてきた。
2015-05-14 20:24:43@CLONE_P0806 幕藩体制の問題は徴税が米か貨幣かではなく、大量の武士が自活と切り離されての都市集住。なので、江戸時代中期に差し掛かるころには「武士を自分で稼げて生活コストも下がる都市外の土着にすべきではないか」と論議もされたのですけど、都市生活に慣れきった武士にいまさら
2015-05-14 20:31:34@CLONE_P0806 都市の外に住まわせるのは無理。また農村などの方もすでに長年、武士なしで自治でやってきてるので、そうした理由でも今更そこに武士を戻せない。また、仮にそうした事が成功したとしても、今度は個別の武士が再び独自の力を武力込みで持ってしまう。
2015-05-14 20:33:27@CLONE_P0806 吉宗の時代にこうした提案をした荻生徂徠は、自活に戻した武士の統制の問題を、制度や礼法の徹底で管理で解決しようとしたが…(そもそも実行されませんでしたけど)現実問題無理。
2015-05-14 20:35:13@mikaguramai 江戸時代も最初の100年で上限3000万に達したら幕末近くまで、150年間ぐらいで庶民の人口で2500万~2700万をいったりきたり。まあ藩単位では「経済力向上のために人口増やしたいのに禁止しても子殺しするので人口が増えない!」とかいう声もちょくちょく
2015-05-14 10:59:24@ut_ken 人口を支えるだけの食料…今でいうところのGDPがあったか?と問われると、多分明治に入って劇的に産業発展が無い限り難しかったんじゃないかと言う意見が腑に落ちる。 割りと心理要因も大きいと聞きますし。
2015-05-14 11:03:01過去50年位の人口動態とか、縄文時代からの人口動態を見ると滅亡なんて事を心配する必要なんか無いことは明らかで、不安の煽り過ぎも又罪であるって事にも気づいてほしいね。>人口減少
2015-05-14 10:53:44過去50年位の人口動態とか、縄文時代からの人口動態を見ると滅亡なんて事を心配する必要なんか無いことは明らかで、不安の煽り過ぎも又罪であるって事にも気づいてほしいね。>人口減少
2015-05-14 10:53:44@mikaguramai @ut_ken 田沼意次の時代には「食料の輸入も視野」だったみたいですからね……。体制の矛盾も相まってあのままの幕府存続は難しかったでしょうね。
2015-05-14 11:05:07@CLONE_P0806 @mikaguramai いや食糧輸入とかの話はなかったような。よく言われるロシアとの交易検討も、企画書の内容が楽観的すぎるうえに、実地調査の結果「特に利益がない」「長崎貿易の疎外になる」という理由で田沼自身が見送りを決定
2015-05-14 11:08:12@ut_ken @mikaguramai ほほぉ。それはしらんかった。じゃぁ、食料の輸入が検討され始めた時代っていつだったんだろ?
2015-05-14 11:09:33@CLONE_P0806 ちょっと調べてませんね。明治になって米の輸入をやるようになったのはわかってはいましたが、詳しい経緯は知らなくて
2015-05-14 11:18:15ちなみに、やはり田沼の先進性といわれる蝦夷地開発の件も、同様に提案書の内容が利益見積りが楽観的すぎ、いきなり松前氏から取り上げて幕府単独で開発、防衛問題の方は考えてないとかで、これも実地調査の上で、田沼自身が見送り決定
2015-05-14 11:11:02田沼と比べて後進的といわれる松平定信の「とりあえず放置して荒れ地にしとけ」という蝦夷地についての方針も実際は、ロシアとの軍事・外交的緊張が田沼時代より高まってた事や、幕府単独開発は無理があるので将来的に東北諸藩に分担で防衛開発させるという方針とかだった
2015-05-14 11:13:38twitter.com/kyslog/status/… 江戸時代でも、別に国力が衰退したから徳川政権が滅んだわけでなく、経済力や民力・資本主義などは順調に育ってたのに、政府の徳川幕府がそれに対応しきれないまま外国への対応で信頼をなくして倒れたのであって、新政府にはスムーズに移行できた
2015-05-14 16:45:08「過去の歴史を振り返れば」と言うならせめて江戸時代の中の景気変動くらいは知っておいてほしいというか、伸びて縮んでの1サイクルだけしか語れませんというのは歴史を語るにも余りにも稚拙としか
2015-05-14 16:26:33@senooakio @akita_kia 歴史を言うなら、日本の江戸時代でも、前期百年の高度経済成長が終わって景気や人口などの停滞以降様々な問題が噴出しましたけど、その後、田沼時代、大御所時代と経済発展を着実に続けて、中央政権こそ徳川は倒れましたが社会は明治にスムーズに発展以降
2015-05-14 16:56:27@senooakio @akita_kia ちなみに、江戸時代の徳川政権も、別に放置していて勝手に経済発展したわけでなく、高度経済成長が止まって以降、現代に通じる様々な経済政策を試みてますよ
2015-05-14 16:57:48@senooakio @akita_kia でも、経済的・国力的にはむしろ幕末まで発展し続けてましたよ。人口増加も幕末あたりからまた始まっていた。ようするに社会の発展に対し、政治制度が対応しきれなかった例で、「経済政策なんて無駄」という主張の根拠には真っ向から反している
2015-05-14 17:18:54@senooakio @akita_kia ちなみに、田沼は「田沼時代」であって、寛政の改革は松平定信。あと、王政復古という博打性の高いのクーデターが成功しなければ、徳川政権が存続してほぼ明治政府のような改革をしていた可能性も高いので、実は徳川政権が完全に倒れたのは必然ではない
2015-05-14 17:22:27@senooakio @akita_kia 逆に、社会にポテンシャルがあっても政治の失策でそれを阻害した典型が新井白石~吉宗中期までの、貨幣政策の失敗。貴金属純度にこだわりすぎて流通量を大幅に減らしてしまいデフレ不況、年貢米売却価格低迷で、吉宗後期の貨幣増量政策転換で一気に解消
2015-05-14 17:27:50@senooakio @akita_kia 田沼時代や大御所時代も、そうした社会要請にこたえた政策をとって経済発展を後押し。もっとも幕藩体制というシステムにこだわると、経済発展が進むほど、体制は崩壊していくというジレンマが。
2015-05-14 17:29:38