【大江戸交通網】江戸時代の交通・流通

扇さん(ougi1515)の、江戸時代の交通・流通に関して語られていた一連のツイートが興味深かったのでまとめました。
人文 江戸時代 交通 流通 歴史 日本史
10
扇 希実@エロリスト @ougi1515
今日はなんとなく江戸時代の交通網についてお話し。 歴史好きの方で多いのは政治史はべらぼうに強いけど文化や民衆の生活などは全くの無知という方が多い。確かに政治史に比べたら華はないけど、ここがわからないと現代の感覚で政治史を考えてしまう。当たり前だが江戸時代に新幹線とかありませんから
扇 希実@エロリスト @ougi1515
室町から戦国にかけて関所などが出来たがまだまだ整備が整っていない江戸時代初期。そもそも関東地方、とりわけ横浜などは幕末まで草ボーボーのど田舎だったから大体はお察しレベル。江戸も家康が来る前はど田舎 まず発達したのは、東海道、中山道、日光道中、奥州道中、甲州道中…つまり五街道である
扇 希実@エロリスト @ougi1515
万が一戦争が起きたら武器弾薬食料などをスムーズに運ばないといけない。 参覲交代でスムーズに江戸に行くためには道が整備されてないといけない。 そういった理由から五街道は発達していく。一里ごとに現在の距離がわかる一里塚も五街道に置かれた。 主要道路となれば道沿いも現代同様発達していく
扇 希実@エロリスト @ougi1515
そもそも参覲交代とは藩主が一年おきに江戸と各藩領を行き来する江戸幕府に対する服属の証明である 家臣団を引き連れ更には旅費、滞在費は全て藩持ちであるため莫大な出費になった。加賀藩などは4000人の大名行列だったという。対象は一万石以上の大名で薩摩藩は参覲交代に2ヶ月もかかった。
扇 希実@エロリスト @ougi1515
なんで金かかるのに参勤交代やるんだとよく言われるが参勤交代の大名行列は大名にとってステータスでもあった。参勤交代が立派であればあるほどあそこのお殿様は立派だと見られる。いつの時代も大事なのは第一印象なのだ。それでも出費がかかってどうしようもない時は幕府まで緩和の命令を出している。
扇 希実@エロリスト @ougi1515
どの藩も立派な大行列が移動するわけだから宿泊施設が無くてはならない。 五街道には10キロごとに宿場が置かれた。東海道は品川から大津まで53の宿が置かれた。聡明な皆さんはもうお気づきだろうがその宿場の様子を描いたのが歌川広重の「東海道五十三次」 因みに大坂を加えたら五十七次である
扇 希実@エロリスト @ougi1515
大名は宿場にある大名と関係者専用の宿泊施設である「本陣」に宿泊する。今で言う高級ホテルです。一般人は身分もあり宿泊は出来なかった。また本陣のワンランク下の宿泊施設に脇本陣というのもあった。 本陣の例は土方歳三の故郷、東京都日野市にある、甲州街道の日野宿の本陣跡があり見学も可能だ。
扇 希実@エロリスト @ougi1515
宿場には宿泊以外の施設もあった。 問屋場です。今で言う郵便局みたいな施設。 人足や馬を常備しておき次の宿場まで大名の荷物を運び、また幕府の書状や品物を次の宿場に届ける継飛脚も請け負っていた。 これらをスムーズに運営するために問屋場には宿場の最高責任者である問屋が詰めていた。
扇 希実@エロリスト @ougi1515
最高責任者が問屋、問屋補佐の年寄、事務が帳付、人足や馬を管理指図する人馬指、参覲交代を迎える迎役といった役職もあった。 時代が進むにつれ一般人も利用出来るようになったが賃金は倍以上取られた。 備え付け数は人馬は東海道が100、中山道が50、甲州、日光、奥州は25と決められていた。
扇 希実@エロリスト @ougi1515
この人数、馬が足りなくなったら宿場周辺の村にヘルプをお願いした。それが助郷である。最初は臨時徴発だったが当然ながら徴発が当たり前になっていった。 朝から晩まで徴発されたのに賃金は雀の涙くらいと、負担がとんでもなく重く、後に一揆や打ち壊し、ええじゃないかなどの要因にもなる。
扇 希実@エロリスト @ougi1515
先程ちょっと話した飛脚。今でいう郵便。 江戸から京都まで約90時間、最速便で60時間で走った。具体的にどのくらい速いのかというと蓑笠を胸に当てて走り、それが風圧で落ちないスピードで走ったという。実際やってみるとかなりキツイし速い。飛脚は飛脚走りという疲れない走り方があったそうな
扇 希実@エロリスト @ougi1515
飛脚にも種類や身分があり、先程の継飛脚は宿場から宿場へリレー形式で走り、幕府の荷物を運ぶ為身分が一番高かった。次いで諸藩が使う大名飛脚。武家や町人は飛脚屋や飛脚問屋を使った。 当然人間の足の話しだから天候や体調に左右され期日通りに届かないことは日常茶飯事であった。
扇 希実@エロリスト @ougi1515
だから江戸時代の書簡は内容が非常に長い。受け取りに時間がかかるから言いたいことを全て書くからだ。またそんなに急ぎじゃない時は知り合いが用事にその場所付近に行くのとついでに書簡を持って行ってもらったりした。 また江戸、大坂、京都に町飛脚組合が出来て月3度の定期便を出すようにもなった
扇 希実@エロリスト @ougi1515
街道の重要点には関所が設けられた。箱根、碓氷がその例。関所を通るには通行手形がないと通れなかった。 また幕府は大きな川には橋をかけなかった。いずれも犯罪者やお尋ね者が遠くに逃げるのを防ぐ為と言われている。 基本渡し舟で渡ったが中には人間が旅人を肩に乗せて運ぶ川越人足などもあった。
扇 希実@エロリスト @ougi1515
陸上交通が発達すれば水上交通も発達する。川や湖を切り拓き、船で遠くまで荷物を運べるようにした。 高瀬川、保津川、富士川を切り拓いた角倉了以が良い例である。角倉了以は京都では商人というよりは水運の父として有名なのはそういう理由からである。
扇 希実@エロリスト @ougi1515
江戸時代は鎖国ということで出国は出来なかったが海岸に沿って船を動かすのはOKだった。 特に江戸と京都、大坂の航路が盛んとなり菱垣廻船、樽廻船の二つの船が行き来した。 最初は大型定期貨物船として菱垣廻船が使われてたのだが時代が進むにつれ小さいが速い樽廻船が主流に変わっていく。
扇 希実@エロリスト @ougi1515
樽廻船の樽とは酒樽であり酒が腐る前に届けなければいけなかったから速かった。しまいには酒樽以外の物も運ぶようになり菱垣廻船は衰退していった。 海上交通が発達したので様々な航路が出来た。江戸と京都、大坂を直接結ぶ航路は南海路と呼ばれた。 江戸から大坂に運ぶ品は米や綿、和紙などが代表だ
扇 希実@エロリスト @ougi1515
東北などで採れる米を運ぶ航路も河村瑞賢が東廻り航路、西廻り航路を開いてから更に行き来が盛んになる。 東廻り航路は津軽海峡から太平洋を下って江戸に行く航路。西廻り航路は下関海峡を通って瀬戸内海をへて大坂へ行く航路。大坂江戸間は南海路を使って日本中どこへでも運ぶことが可能になった
扇 希実@エロリスト @ougi1515
大坂には様々な商品が集まり、天保年間には天下の台所と呼ばれるようになっていた。 特に年貢米が全国から集まるところで各藩も大坂に蔵屋敷を持っていた。堂島米会所のような米の証券取引所が出てきた。 因みに江戸は将軍のお膝元と言われてたが京都は特になく、上方と呼ばれていた。
扇 希実@エロリスト @ougi1515
以上。 江戸時代の交通網についてでした。 大体はしょったから高校日本史、センター試験レベルの知識でしかないのはスマソ

コメント

コメントがまだありません。感想を最初に伝えてみませんか?

ログインして広告を非表示にする
ログインして広告を非表示にする