竹槍事件
竹槍事件とは1944年(昭和19年)2月23日に毎日新聞で「竹槍ではなく航空機を(精神論ばかりじゃ勝てないよ)」との趣旨を新名丈夫(しんみょうたけお)記者が載せた記事に東條英機首相が激怒した事件である。
2015-06-22 15:09:07「勝った!勝った!」との大本営発表と「全国民が竹槍まで繰り出して戦う」との気概に冷や水を浴びせる記事に東條英機首相は激怒した。
2015-06-22 15:09:30毎日新聞は責任を取る形で吉岡局長、加茂整理局長を更迭したが新名に「特別賞」を与え、謝りながら舌は出したわけだ。すると・・・
2015-06-22 15:09:46徴兵である。新名はすでに37歳で大正時代の徴兵検査で「極度の近視」でハネられた(徴兵免除)人物であり、陸軍というか東条の「報復」だった。しかも新名だけ徴兵すると体裁が悪いので同年代の250人も「ついでに」徴兵している。
2015-06-22 15:10:07海軍は新名が「黒潮会(海軍省記者クラブ)」の報道班員として新名をパラオに送ろうとしたが陸軍は先に「召集令状(赤紙)」を送り届け3月3日に丸亀連隊に出頭するように命じた。
2015-06-22 15:11:15連隊の中隊長が新名と大陸戦線での「顔見知り」だったこともあり、またこの措置に「義憤」に駆られ新名を「特別扱い」にして演習にも参加させなかった。
2015-06-22 15:12:03新名は3ヶ月の「特別扱い」から海軍が「徴用」する形で丸亀連隊から報道班員としてフィリピンの第一航空艦隊に送られ、戦後まで生きた。(昭和56年没)しかしそこには陸海軍の確執もあった。
2015-06-22 15:12:42戦局の悪化にともない航空機消耗が激しくなり(ソロモン諸島は搭乗員と機体の墓場だった)海軍としては航空機が「一機でも欲しい」状態だった。(昭和18年海軍の航空機損失率は205%)
2015-06-22 15:12:55消耗している航空機を増産して補充しないといけない。海軍26000機陸軍19000機の「増産計画」(まだ計画だけの数字ね)の割り当てとなり東条も一旦は同意した。
2015-06-22 15:13:301944年(昭和19年)2月10日陸海軍の会議で陸軍軍務局長佐藤賢了(議会で「黙れ!」と言った人ね)が「海軍は26000機やったら勝てるか!(すでにマーシャル諸島クェゼリンに米軍が上陸してた)」と言った。
2015-06-22 15:13:50しかし佐藤の意見も最もであり、海軍は「決戦」をせずに防御線をズルズル下げて、最悪日本本土が決戦場となると陸軍としては中国大陸をバックに置いた戦略になるので航空機を減らしたくなく、これに東条も反意した。
2015-06-22 15:15:17結局、会議で陸軍27120機海軍25130機で一応「決着」した。ちなみに太平洋戦争期間中(1941年12月〜1945年8月)の航空機生産は65300機である。
2015-06-22 15:15:51フィリピンで事件の顛末を知っていた航空隊指揮官は新名を見つけると「よく書いてくれた」と手を握り、「新聞記者も命を張ってるだから我々(搭乗員)も」と言われたそうな
2015-06-22 15:17:48戦後、昭和天皇は東条を「高評価」するも「憲兵を使いすぎた」という面も認めている。竹槍事件は「東条悪玉論」の要因の一つにもなっていることはある。
2015-06-22 15:21:42