- IshihataAi
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なぜ保育士であることとレズビアンであることとの間の葛藤が、調停されうる(もちろん失敗もありうるが)多重成員性の問題ではなくて、そもそもその可能性がないこととして捉えられているの?そして、そういう交渉不可能性を持ち込むことで、認知的主体の想定という公約違反は解消されるの?
2010-12-29 23:55:07Hodgesのいう交渉不可能性について。保育士になること(優位な共同体への参与)とレズビアンであることの間の葛藤は、役割性と固有名性の間の葛藤であり、それぞれが互いに異なる位相にあるために交渉不可能で、後者の自己は前者の自己を支える共同体の優位性ゆえに疎外されるということかな?
2010-12-30 02:31:38先述のふたつのアイデンティティが、調停の失敗ではなく、そもそも調停不可能であるという感覚がやっぱり分からないのだが、Hodgesの論文が書かれた1998年の幼児教育界は、そういう価値観が絶対的だったということなんだろうか。時代が変わると意味がまったく分からない。。。
2010-12-30 02:37:34位相が違うというのは、社会的交渉によって構築される役割性(社会における相対的な位置取り)と、個人史の想起によって構築される固有名性(絶対的な位置取り)の違いを言っているらしい。
2010-12-30 02:41:17ここまで頭を抱えてまで解決すべき問題でもない気がする。いずれにせよ、個を受け入れる共同体が頑としてあって、個は周辺から中心へと参加を深めていくというモデル自体を問い直すべきであろう。LPPと呼ばれるものをLPPであるかのように見せているものは何か。
2010-12-30 03:28:47@IshihataAi dis-identification が multimembership より後から出てきが概念だというのは本当?Hodgesはmultimembership の論文を引用してますか?
2010-12-30 13:12:34@IshihataAi 「多重性員性」(multimembership)の出てくるWengerの著書『Communities of Practice』が1999年なので、そのあたりの関係性の有無は確認する必要がある気がします。
2010-12-30 13:15:41Wengerのidentity of non-participationとinterstitial communityとtransparencyが1990、Hodgesのdis-identificationが1998、Wengerのmultimembershipが1999
2010-12-30 14:47:35Hodges (1996) Training women to be teachers in early childhood education and the politics of participation. 1998に先立ってmarginalityが出てくる。
2010-12-30 15:05:20Hodges(1996)によれば、周縁化された(marginalized)人々も、幼児教育の共同体の成員に同一化できるけれど、そのアイデンティティ構築過程や実践共同体の中でそれが変容していく様は、優位な共同体の関心への抵抗を反映したものとして理解できるそうだ。
2010-12-30 15:17:17@IshihataAi LPP論とアイデンティティの関係についてはこの論文で整理されていたと思いますが、すでにチェック済みでしょうか? http://bit.ly/gp0lRh
2010-12-30 15:55:45@kimish330 はい読みました。バフチンの「視覚の余剰」を導入することで、「固有史」につきまとう絶対的な個人という公約違反を解消しようとしているとこは、なるほどなぁと。
2010-12-30 15:58:05@IshihataAi その高木論文の中で、Hodgesの固有名性の議論とWengerの議論の両方が紹介されていたと記憶しているのですが、どちらかがどちらかに影響を受けて・・・的な整理のされかたでしたっけ?私の記憶だとただ並置されていたような気がするのですが。
2010-12-30 16:01:48@kimish330 今読み返してみたら並列されているだけでした。以前読んだときに、WengerのmultimembershipがHodgesのdis-identificationに影響を与えたかのように誤読したようです(誤解をしているらしいメモが残っていました)
2010-12-30 16:04:42大人が一度「こどものため」に遊ぶと、それが「自分自身が遊ぶ」にもどるのはむずかしい。「こどものため」という大人としての意義が立派だから、自分自身のためという意義がこどもっぽくなってしまうのか?
2010-12-31 09:41:34でも、実際には自分自身が楽しく、嬉しくなるのは押さえられないので、夢中になって「はしゃいで」しまう。これは本能であるからあたりまえ。
2010-12-31 09:47:13いろんな遊戯論を調べた。遊戯に備わる学習と社会化の機能を重視しているものと、逆にそういうものを学校的なものとみなし、それに対抗するものとして遊戯をとらえているものがあることが分かった。私はどっちもでどっちでもない。まだ勘でしかないので証拠固めをしなければならない。
2011-01-01 02:04:18抵抗論批判。行為者に抵抗の意図がないにもかかわらず、その行為に抵抗の機能を見いだす抵抗論は、文化人類学の信条である「行為者によって生きられた現実を理解すること」に反する。
2011-01-01 20:28:47このような誤りをおかさず、と同時に、行為者の実践を過小評価もせずに、行為者が、権力に様々な創造的なやり方で抵抗することを認める理論を、いかにして展開できるか。—アブ=ルゴット「抵抗のロマンス」
2011-01-01 20:33:26@IshihataAi 相違というか、抵抗は行為であって、戦術は思考でない?行為と思考の純粋比較をしようとしているの?
2011-01-01 20:50:11@takeshun1984 セルトーは行為を指して「戦術」という用語を使っています。抵抗と戦術の比較ではなくて「抵抗」と「戦術」の比較。
2011-01-01 20:51:50@IshihataAi なれば、目的意識の違いかな?抵抗って逆らうニュアンスだから責められてないといけないけど、戦術は相手の状況に関係ない能動的な行為に当たるのかな?
2011-01-01 20:54:35