まず、イキナリ大雑把なジャンル論で恐縮なのですが、私は以前「SFとFTの本質的分水嶺は、その志向性が未来に向くか、失われた過去に向くかだ」と書きました。ただコレ、現象としては言葉どおりの意味なんですが、その原因は「人間がかつて持っていた、ある世界認識が失われたから」なのです
2010-03-08 01:18:29人間の思想史を整理してみると、我々現代人と同じような世界認識というのは、実は17cに「発明」された、近代哲学にあるコトがわかります。有名なデカルトの「我思う、ゆえに我あり」で、人は世界の見方をガラっと変えちゃったわけです。
2010-03-08 01:20:55この「我思う、ゆえに我あり」とは、巷間思われているように「ボクはココで考えて生きている、ビバ!」みたいな、ポジティブ・シンキングでは、間違ってもありません。一口に言えば、それは「俺には俺の見えるモノ、わかるコトしかわかんないんだから、ほかは思うだけムダじゃん!」ってイミです。
2010-03-08 01:22:51この考え方、もともとは教会勢力の「スコラ学」へのカウンターだったのですが、折からの自然科学発展と歩調をあわせ、「近代思想」として急速に浸透していきます。ぶっちゃけた話、実は我々現代人も、その延長でしかモノを見ちゃいないのです。
2010-03-08 01:24:51でまあ、この「近代哲学」がナニをもたらしたかと言いますと、それは例えば森林の「開発」であったり、神や神秘の否定(あるいは懐疑)であったりしました。一見関係ねえように見えますが、実はこの2者には明確な因果関係があるのです。
2010-03-08 01:26:53時間を大きく巻き戻して、古代。人が世界を「畏れ敬うもの」と考えていたことは、周知の事実でしょう。フレイザーを持ち出すまでもなく、「理解を超えたナニか」を「理解の範疇に収める」一番の方法は、「たぶん自分と同じような意識をもった、もっとスゲエ奴らのせい」と考えることだからです。
2010-03-08 01:30:21言うまでもなく、この最たるモノが「神」。そして古代人は、多くのモノに神性を感じ、それに取り巻かれて生きている、と認識していたわけですね。
2010-03-08 01:31:19だから古代の人々にとっては、森林開発なんか、技術的にできたとしても、おっかなくてできませんでした。なぜなら、「森」もしくは「森の神」という、自分と同じような意識をもった存在が「怒る」から。
2010-03-08 01:32:30しかもこの神性たちは、まったく予測がつきません。時に美しいモノを与えるかと思えば、なーんも悪くない人間をゴミみたいに殺しもします。ヨーロッパの暗い森に囲まれ、孤島のような居留地に暮らしていた人々は、常にこうした「大いなる他者」の気まぐれを、畏れながら生きていたわけです。
2010-03-08 01:34:46ところが、「我にわかるモンしか我にはイミねぇんだから、存在しねぇのと同じ!」と言い切ってしまい、かつ自然科学による「客観性」の発明によって、人間の世界認識は転倒します。
2010-03-08 01:35:56一口にいえば、「他者」を畏れる必要が否定されまったのです。想像してみてください。例えば暗い森を歩いているとき、背後になにか気配を感じる。でも我々現代人は、まず「まさかそんな!」と、自分の主観性から否定しますよね? 客観性の保障が一切ない状態であっても、です。
2010-03-08 01:38:02このパラダイムのもとでは、証明されない主観性は「ないも同然」です。同様に、森や川や風もまた、主として「自分にとってどんな“意味”を持つか」という視座からしか、観測されることがない。だから例えば、現代人は自然を「守る“べき”もの」だと言うのです。
2010-03-08 01:41:04たぶんほとんどの方は、「左から右へ向かう時間軸を持った直線」、つまりは年表のようなモノをお書きのコトでしょう。でも、それホントに「時間」の実態を表してるでしょうか?
2010-03-08 01:47:55我々は過去を「あった」モノとして、また未来を「あるだろう」モノとして捉えていますが、厳密に言えばコレは正しくありません。時間の実態、それはただ「刻々と移り変わる現在だけがある」状態であり、過去も未来も、どこにも存在していないのでは?
2010-03-08 01:49:54確かに過去の記録も、過去の記憶も存在はします。しかし、その存在はどこまでいっても「現在」にぞくするモノ。目の前にあるのは、「現在に存在する一昨日の食事の写真」なのです。
2010-03-08 01:51:26言い換えるなら、時間を正しく模式化した場合、それは車輪のようなモノであるべきです。上の頂点が現在であり、その現在は常に進行方向へ流され、後ろからきた未来に置き換わっていく。そして我々3次元上の存在は、ただ頂点にしか存在しえず、「歴史」という轍は見えても触れない。
2010-03-08 01:53:23では、なぜ人は時間というものを、直線で表すのでしょう? 言うまでもありません、そのほうが人間には「意味がある」からです。過去の記憶を担保し、自分の同一性が常に連続していると信じなければ、やってられんからです。
2010-03-08 01:55:10恐らく古代人は、ここでも違った感覚を持っていたでしょう。多くの資料が、彼らの多くが「円環状」の時間感覚を持っていたと、雄弁に語っています。
2010-03-08 01:56:18恐らくここまででも、勘のイイ方はお分かりと思います。本題に戻って、まずSFについて言うならば、このジャンルにおけるキャラクターや世界の創り方は、徹頭徹尾こうした「近代理性」に則ったモノなのです。
2010-03-08 01:57:54繰り返しになりますが、私は架空世界構築の精密さ、巧みをもって「SFの本質」とは考えていません。所詮絵空事である以上、それはすべてのフィクションに必須の要件です。しかしSFの場合、その「緻密さ」の基準が、近代理性のパラダイムに則ったモノである点は、強調しておきたいのであります。
2010-03-08 01:59:54つまり一般小説と同じく、架空の世界が「こうなっている“ハズだ”」とか、キャラクターが「ココでそんなコト言う“ハズは”ねえよ!」って場合、この“ハズ”の基準は、あくまで近代理性である、と。
2010-03-08 02:01:10まあぶっちゃけて言えば、「俺らと同じ思考回路のキャラクターが頑張ったり、俺らにも納得できる架空世界がアレなコトになったりした様子を、俺ら現代人にも納得いくように描いておくれよ」と。
2010-03-08 02:02:57ところが、そんな我々現代人にも、どっかに古代から受け継がれた“世界認識の遺伝子”みたいなモノが眠ってる瞬間、自覚することってありません?
2010-03-08 02:04:09「背後の気配」とか「鈴鹿の130Rで神を見た!」とか、そういう例はまあ置くとしても、例えば山に入ったとき、理由もなく畏怖に打たれる瞬間。あるいは、夜の街灯に光る雨を見て、言いようのない恐怖に囚われる瞬間。
2010-03-08 02:06:06もとより、近代理性の生んだ世界認識っていうのは、一面すこぶる「退屈」なんですよ。だって世の中のすべてが、「自分にとってイミがあるか否か」で2分されちゃうんだから。
2010-03-08 02:07:41