昭和20年8月事件についていろいろ(宮城占拠事件)
- yuzukoseuG
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1945年昭和20年8月14日の御前会議招集は陸軍省部のクーデタ派を慌てさせます。その朝陸相自ら参謀総長と東部軍司令官から「決起」反対を宣告された後だけに「重臣層(天皇)」に先手を打たれたと感じたのです。
2015-08-14 11:18:56梅津参謀総長の反対の弁は禁中にて兵を動かすことはならないというものです。梅津はすでに大勢が決した以上粛々と大御心に沿って終戦準備をなすべきだと思っていました。
2015-08-14 11:22:32一方東部軍は同席した高嶋辰彦参謀長が重臣保護のための治安出動といえども大命による副署が必要と譲りませんでした。高嶋は武辺者でしたが、法規に基づく正式な命令書発行を阿南陸相に求めたのです。
2015-08-14 11:27:49当時閣僚、枢密院、軍事参議官などへの警備は警察、憲兵隊の所管でしたし宮中身辺警護は皇宮警察が責任を持ちました。近衛師団を含む作戦部隊は身辺警護は任務外だったのに注意が必要です。
2015-08-14 11:31:38そしてこれも誤解が多いのですが、陸軍大臣は戦闘部隊に指揮権がありません。あるのは梅津参謀総長、そしてその指揮下の方面軍司令官(この場合は東部軍=第12軍司令官田中大将)です。司令官からNOを言われては正式には一兵も動かせません。
2015-08-14 11:34:47事実上「合法的に」見せかけての近衛師団動員が失敗に終わったため、クーデタ組の焦点は実行部隊=近衛師団の直接掌握に移りますが、森師団長はやはり拒否し続けます。惨劇の導火線に火がつきました。
2015-08-14 11:38:428月14日16時、芳賀近衛歩兵第二蓮隊長は宮城に入り、その前々日12日からフルユニット750名で任務に就く第二大隊の指揮を親卒せよと指示を受けます。これは古賀秀正師団参謀の説得によるとされます。
2015-08-14 16:45:10説得と書きましたが、古賀はあたかも市ヶ谷からの指示であるかのように芳賀蓮隊長に伝えました。芳賀も同調者ですので異を唱えず従ったのです。
なお、後に問題になる「師団長偽命令書」は15日0時付けで偽造されました。これも後年異本がいくつも現れるなど謎の多い文書ですがここは先に進みます。
通常近衛第一、第二連隊の宮中上番は戦時中でも100名程度でした。上番すると彼らに対する食事は宮内省大膳部から提供され、通常の兵食より御馳走だったのでそれが楽しみだったと当時の近衛兵は回想しています。とにかく750名総員出動と言うのは異常でした。
2015-08-14 16:53:27芳賀は無天、つまり陸大に行けなかった隊付き将校でしたが、東條元首相の娘婿というサラブレッドだった古賀参謀の誘いになんらかの期待感があったであろうことは否めません。この事件後昭和25年ごろ死亡という消息しか伝わらず糾しようがない人物ですが。
2015-08-14 16:59:50すでに先行して宮城入りしていた歩兵第二大隊長北畠暢夫大尉は芳賀大佐の女婿でした。古賀はこの北畠の教育係、つまり翌46年予定の陸大受験に推薦指導する担当でした。北畠は出世の命運を握る古賀の言うことなら一も二もなく賛同したんでしょうか。
2015-08-14 17:07:47北畠は戦後すぐに芳賀の娘を離縁し、常磐高萩炭鉱に就職、スト破りに活躍して総務の管理職になりおおせます。元軍人の戦後の人生は実に多彩で今の常識で割り切れないんでしょうが、やはりちょっと考え込んでしまいます。
2015-08-14 17:12:43一方芳賀とともに入城した佐藤好弘第三大隊長も無天です。彼は「芸者揚げてパーッといきましょう」が口癖だったそうで軽躁なところもあったようです。この後、宮内省での録音盤捜索の主役になります。
2015-08-14 17:19:35近衛師団師団長森赳中将は決起そのものに反対でした。また決起計画そのものが下僚の暴発ではなく陸相クラス以下の関与する大掛かりなものだという注意も田中東部軍司令官から注意されていたと思います。しかし、第二大隊出動について目下のところ当時の反応が残されていません。
2015-08-14 17:53:53もちろん師団内における不穏な情勢は察知していたと思います。その為に畑俊六第二総軍司令官の参謀長で義弟の白石通教中佐を呼び寄せていました。畑元帥は広島での原爆被害報告を兼ねて上京中でした。森中将は近衛大隊について、不測の場合は自分が出馬すれば撤収できると若干慢心したのかもしれません
2015-08-14 18:02:4718時頃近衛歩兵第一連隊村上稔夫大尉は古賀少佐に呼び止められます。「村上、いざというときはお前、師団長を斬らんか。」自分の意にならない森中将にいら立ったんでしょうか。同時にすでに進行中の計画については古賀でも知らされない情報があったのです。プランナーの狡猾さが見え隠れします。
2015-08-14 18:10:17この頃文京区にある平泉澄博士邸には一団の軍人が集まってきていました。陸軍省軍務課の井田中佐、畑中少佐、椎崎少佐。そして前夜来連泊していた水戸通信学校の窪田謙三少佐。埼玉県豊岡(現航空自衛隊入間基地)の航空士官学校教官上原重太郎大尉。
2015-08-14 18:18:20平泉澄は当時東大教授、福井県の平泉寺白山神社宮司で日本中世史専攻。その独特の皇国史観で有名でした。陸海軍人で私淑する者が多く、文京区西片の自宅はその為の私塾「青々塾」に使うために300坪と言う広さでした。元は福井藩阿部家の上屋敷跡です。畑中、椎崎、窪田の三名は青々塾の塾生でした。
ちなみに平泉は終戦後追われるように東大を退官しますが在学中の弟子に「教科書裁判」の家永三郎がいます。
上原大尉はレイテ島ブラウエン強襲の高千穂空挺団に内定して訓練に励みましたが作戦前に編成を外され腐っていました。航士時代の生徒に作家飯尾憲士がおり、戦後の出版物等での上原の扱いに憤慨していました。そして60年代サンデー毎日のスクープを目にしてある決心をします。
2015-08-14 18:30:34週刊誌では窪田謙三の存在に脚光を浴びせる書き方でしたが、反乱側にシンパシーを持つ飯尾は上原の名誉回復をしたい思いで調査を開始しそれがこの叛乱事件解明について不明点にいくつもの窓をあける著書『自決』(光人社NF文庫)に結実しました。
2015-08-14 18:34:43畑中椎崎両名の死因に疑問を投げかけたのがこの死体検案書です。多くの書でことすべて終わった15日午前中に皇居前広場でそろって拳銃自決となっていますが、検案書で致命傷として背部からの刺し傷が記載されていたと言います。
現物があれば見たいものですが。
@yuzukoseuGもしかすると 御存知かも知れませんが、ここ(blog.goo.ne.jp/xojisanx)に書かれている事が、どうも気になります。
2015-08-14 22:40:11@siturakutei 226組の中も様々です。末松は大岸頼好らとお茶の水の渋井別館にいたはずです。日仏会館は恵比寿ですが、お茶の水とあります。アテネフランセでは?また同夜は森は古賀の差し金で23時まで巡察に出ています。末松は東部軍で誰と会う予定だったんでしょう?
2015-08-14 23:38:50