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「CROSS†CHANNEL」「最果てのイマ」における物語可能性の取り扱い

@tukinoha氏の「最果てのイマ」論に応答しての「CROSS†CHANNEL」「最果てのイマ」両作品についてのテキスト論。選択肢型エロゲが保有する物語可能性空間の多様性を、ベンヤミンの「メシア的時間」概念と無理やり絡めて、田中ロミオがどのようにその多様性について向き合ったかについての私的メモ。
エロゲ
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@crow_henmi
「メシア的時間」と「物語の複数性」及び「二次創作性」は大変相性がいい、というメモ。
@crow_henmi
エロゲの物語の複数性構造を「メシア的」な、過去・現在・未来が「今」に同時に存在しているものと捉えうるかどうかは、テキストのアクロバット的な解釈を必要とするが、複数の可能性が同時に存在しているという話は、延々なされており、メシア的時間の可能性軸への応用は可能だろう。
@crow_henmi
いわゆる「Kanon問題」の「遡及的過去形成」「可能性の数だけ奇跡がある」という論点の延長線上に、あらゆる可能性が「現在」に同時に存在するが故に、現在の選択が遡及的に過去改変できるし、いまここにある可能性としてのひとつの奇跡が、すべての物語軸における奇跡として機能する、といえる。
@crow_henmi
んでまあ、その辺のことはKanonの鬼子である「C†C」「最果てのイマ」にも応用できるのではないか、あるいはその逆倒的な形として語れるのではないか、というのが、たぶん今回書くロミオテクスト構造論の手がかりになる。
@crow_henmi
まだKanon問題に関わっているのか、と云われるわけだが、むしろ、物語可能性空間というものに肉薄していくKanon問題より面白いエロゲテキスト問題はあるのか、と問いたい。まあ、結局テキスト論と物語可能性問題にしか興味がないというのがまるわかりなのだが。
@crow_henmi
近代の成立において、「均質で空虚な時間」というものが立ち現れた。それは時間の客観的均質さであり、同じ時間性にすべての人間が生きているということであった。しかし物語可能性空間は、そうした時間性から逸脱した――キャラクターを審級とした多重的な時間を包含している。
@crow_henmi
メシア的時間とは過去・現在・未来が渾然として「イマ」と接続している多重性を持った時空間なのだが、これの過去と未来の可能性方向への応用という話は、すでに「Kanon問題」で語られていた。今木さんえらい。といういつもの話ではあるのだが。
@crow_henmi
遡ればこのような物語可能性へのアクセスは大塚英志が物語消費論で唱えていたものであり、エロゲはそれを物語の中に内包すると共に自己言及的に表した作品形式である、といえる。
@crow_henmi
しかしKanonの後継者たちはKanon問題の表面的な部分、すなわち「誰かが助かれば、他の誰かが助からない」という「近接で空虚な時間」という認識に囚われ、ループにより各可能性を線的につなぐ、そもそも選択肢が存在せずヒロイン一筋、みたいなゲームが生み出されていった。近代の呪縛!
@crow_henmi
ここで「C†C」「イマ」の話になるが、これらの作品は可能性方向に広がったメシア的時間性という豊穣さから一歩退いている。あくまで「空虚で均質な時間」の相互に接続しえない並列化及び線形化でしかない「C†C」と、一見メシア的時間性を備えているかに見えるが実は切り張りでしかない「イマ」。
@crow_henmi
しかしながら、そこにおいてもなお「メシア的時間性」は温存されている。「C†C」における「黒須ちゃん、寝る」の特異点性や「イマ」における「エピソード順番決定負可能性」などがそれにあたる。そしてそれらは、ロミオの自覚的な「均質で空虚な時間」からの逸脱と捉えうるかもしれない。
@crow_henmi
時空間の異化により可能性が立ち上がってくる状況、というものを詐術的に見せる。そういう意味で、「C†C」「イマ」は共通した目的意識のもとに置かれているかのように見える。
@crow_henmi
この辺で「個別ミキミキ」の存在が重要になったりするのだが、どう書いたものか。可能性時空を線形に貫く超時空ヒロインとしての山辺美希は、逆倒的に「均質で空虚な時間」に侵入してきた「メシア的時間性」の象徴となる。しかしそれが、個別太一と運命をともにすることで、ひとつの結末に収斂する。
@crow_henmi
これは「メシア的時間性」を「均質で空虚な時間」において求める人間の――ある特有の生しか持たない人間が様々な可能性を欲望することの暗喩、と取れないだろうか。
@crow_henmi
我ながら無茶振りであるのだが、なんかそんな気もしないでもない。
@crow_henmi
そこから敷衍すると、物語後半の固有太一の「送還」は、「空虚で均質な時間」を生きるものが、「メシア的時間性」を手放していく過程であり、最後の曜子との対決は「偽りのメシア的時間性を生きる現象としてのふたり」を選ぼうとする曜子に近代を突きつける太一、という構図になる。
@crow_henmi
可能性を玩弄するのではなく、自らが他者と共にある「均質で空虚な時間」の一回性の生こそを選べ、という田中ロミオのメッセージのように思えるのはぼくだけだろうか。ここにおいて「Kanon問題」はその真芯を捉えつつ批判的に克服される(個人的にはもっともつまらない形でだが)。
@crow_henmi
「C†C」においては、可能性を玩弄するが故にどの可能性をも一意的に選べないという「Kanon」のメシア的時間性の牢獄性を否定し、可能性を選択しそしてそれを生きることこそが重要なのだ。それにより、逆説的にテクストとそれが織り成す可能性空間のさらに外側へと超越できる。
@crow_henmi
実際、「C†C」の二次創作は三万本売れたゲームとしては異例なほど少ない。それは「C†C」が物語として「均質で空虚な時間」を選択し「終わり切っている」から、すなわち物語可能性空間の外側へと超越したからではないのか、といえないでもない。
@crow_henmi
この場合の「物語可能性空間外への超越」というのは、その物語への執着を昇華させること、とも云える。
@crow_henmi
固有太一における「送還」の儀は、すなわちプレイヤーを物語から「送還」することであった、といえないでもない。
@crow_henmi
しかしこのような解釈をすると、「黒須ちゃん、寝る」の意味を取り違えてしまいそうなのだが。
@crow_henmi
「メシア的時間性」が究極的に指し示す「あらゆる可能性がそこにあるがゆえに何も選択しなくていい」という問題を「均質で空虚な時間」に立ち返ることにより否定し、生の一回性と選択をせまるという話と読むと、「黒須ちゃん、寝る」のメシア的時間性は説明しづらい。
@crow_henmi
固有太一はメシア的時間性を完全に切り捨てた結果、選択の必要のない究極的境地へといたり、その結果としてあらゆる可能性を逆説的に受け入れることが可能になった、とかいう無理議論をしてみるが無理っぽい。ニアミスかも。
@crow_henmi
答えを出せないままイマ論に。イマにおいてはそれぞれ各ヒロインごとのシナリオと思われていたものが実はひとつの「均質で空虚な時間」におけるエピソードの分節化と再結合に拠ってあたかも多数化されていたかのような詐術がとられるわけだが、これによりメシア的時間性を均質で空虚な時間に還元する。
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