強いものの無自覚、”女の仕事”を正当に評価すること、小さな声は届く/共有されるのか

「強い側に身を置いている人の、自分の強さへの無自覚、弱い側の「身になって」ものを眺めてみるのは至難の業」に対して、「弱い立場の側が自分(たち)で自分(たち)の小さな声を聞いて確認し共有し、その延長線上で、強い立場=男・健常者などに対して小さな声を聞くように要請すること」から始まるspitzibara氏のブログのコメント欄でのやり取りのまとめ。 続きを読む
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●spitzibara氏のブログ【海やアシュリーのいる風景】:

 ★「蕎麦デートの日、「強いものの無自覚」を振り返った 2014/12/11(木) 午前 10:47」

http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara2/64397635.html

リンク 海やアシュリーのいる風景 蕎麦デートの日、「強いものの無自覚」を振り返った - 海やアシュリーのいる風景 先週の小雨の日、 県北に住む60代のBFと 某こだわりの蕎麦屋へドライブした。 確かに美味しい蕎麦だったけど、 そこの女将が、たいそうなおしゃべりで、 そっちの方が蕎麦よりもよほどインパクトがあった。 必然的に、帰りの車の中でも 「それにし...

 

 ● 以下 ↓ は、上記spitzibara氏のブログ記事のコメント欄でのやり取り

   (spitzibara氏とhijijikikiの投稿のみ抜粋しました。URLは後で追加)。
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 spitzibara氏の投稿:

これを2日かけて書きながら、ふっと思ったんだけど、

弱い側がちゃんと普通に声を上げようとしたって、そんなものは強い側は意にも介さないで丸無視されてしまうのが通り相場だから、弱い側としては威嚇的な大声や激しい言葉で訴える(ウーレットのいう「怒りの話法」)とか、メディアなり影響力の大きな別の権威の力に縋るとか、何らかの形で相手への「脅威」となる道をとるしかなくなるんじゃないのかな。昔の「ピンクのヘルメット」なんかも稚拙だったにせよ、その「道」の一つだったんだろうと思うし。

ところがそうなると、もともと弱いものが脅威になるというカラクリの脆弱さを突いて、強い側は揶揄や冷笑で「脅威」を剥奪して「愚かで滑稽な過激性」に摩り替え、あざ笑いながら「被害者」になりすまして、差別をさらに強化する。

2014/12/11(木) 午前 11:24 [ spi*zi*ara2 ]

この悪循環が変わるためには、強い側が気づくことしかないんじゃないだろうか。だからウーレットは、生命倫理学のほうに向かって、より多くの努力を求めているんだと思うし、7日のエントリー(以下にTB)で引用させてもらった川島先生の①から⑩の指摘も、そういうことなんだろうと思う。

問題は、誰もがウーレットやこの男性のようにはなれない現実の中で、どうしたら強い側のシステムや教育から根深く埋め込まれた意識の個々に、少しでも、その気づきを促すことができるか?

2014/12/11(木) 午前 11:30 [ spi*zi*ara2 ]

ついでに書いておくと、

『生命倫理学と障害学の対話』の「補論」で触れている生命倫理学者のPopeとNot Dead YetのDrakeとの論争で、Drakeの「怒りの話法」に滲んでいるのは、

訴えても訴えても声が届かず、生命倫理学の議論から存在を無視され排除され続けてきた年月に積み重ねられた苛立ちであり、この期に及んでもなお、対等な議論の土俵に上がることを認められず、学者にその高みから「場外で、個人的な好意から聞いてあげてもいい」という無邪気な傲慢で対されることへの憤り。

その論争についてのエントリーをこれから以下にTBしておきます。

2014/12/11(木) 午後 3:15 [ spi*zi*ara2 ]

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■■■■■■■ (間の4つのコメント投稿は、まとめに加入しませんでした) ■■■■■■■
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 @hijijikikiの投稿:

こんばんは、@hijijikikiです。

『「強い側に身を置いている人の、自分の強さへの無自覚」について…自分が強い側に身を置いている関係性においては、弱い側の「身になって」ものを眺めてみるということはたぶん、やっぱり至難の業』>その通りだと思います。

拙まとめ『障害者は支援に感謝するべき?健常者は支援されていることに気付いてない?』http://togetter.com/li/398393
で:
『「健常者」は「すでに支援されている人」である。たとえばハシゴでなく階段を設置するのは健常者への十分な「支援」である。すなわち、我々は相互に依存しあい、支援し合って生きている』
と述べたように、「健常者」などの強い側(私の言葉では「強い立場」「主流の立場」)は既に支援されている故に、溺れるまで空気の存在に無自覚なように、自分が支援されていることに無自覚だが、「障害者」などの弱い立場に立つ側は、支援されてない現実に直面し、不利益を被らざるを得ません。

2014/12/16(火) 午前 1:16 [ @hijijikiki ]

強い立場と弱い立場の間の、このような非対称的な現実の成り立ちは、放っておくと“滑り坂”を転がってゆく、というような意味で、とても「自然」な成り行きのように思われます――だからこそこのような事態を改善するためにも、例えば障害者差別禁止法を具体化し実施するなど、弱い立場への支援をより充実させてゆく必要があるかと。

では、実際にどうしたらよいのか?
『どうしたら強い側のシステムや教育から根深く埋め込まれた意識の個々に、少しでも、その気づきを促すことができるか?』>前述のように、強い立場にある側は、少数の例外を除いて、「自分が支援されていることに無自覚」であり、故に弱い立場に立つ側が「支援されておらず、不利益を被る」ことにも、「自然」と無自覚なのだと思われます。

換言すれば、弱い立場の側が問題提起しない限り、強い立場にある側にはなかなかわからない。逆に強い立場の側が“想像力”を発揮したり気を利かせたりして、良かれと思ってしたことでも、された側の弱い立場にとっては、「小さな親切大きなお世話・迷惑」になることも(そういうことはとても多いのでは)。

2014/12/16(火) 午前 1:18 [ @hijijikiki ]

必要なのは対話=やり取りです。弱い立場の側の意向=“小さな声”を聞くこと。聞くといっても、単に耳にするだけでなく、聞いたことに対して適切に応答し、対応・やり取りすること。
そういう関係――富国強兵殖産興業、上意下達が主流でやってきた学校教育でとても軽んぜられてきたこと――を作ることが重要だと思います。

しかし、弱い立場に無自覚な強い立場に対して、弱い立場の側が声をあげること、話を聞いてもらう・要求を実現することは、何の準備もなしには困難である場合が多いでしょう。

まず最初に、弱い立場の側が自分(たち)で自分(たち)の小さな声を聞いて確認し、共有すること。自助グループや当事者グループやピアサポート・ピアカウンセリングなどの活動などでそれが実践されてきていると思います。
そして、自分(たち)の小さな声を共有し、確認したその延長線上で、強い立場=男・健常者・上位者・管理者・行政などに対して小さな声を聞くように要請すること(spitzibaraさんのエントリー「療育園と家族が本当の信頼関係を築くために」もその例かと)。

2014/12/16(火) 午前 1:18 [ @hijijikiki ]

そして弱い立場の側への対応を考える上で重要なもう一つの例は、以前ご紹介したCAP (Child Assault Prevention=子どもへの暴力防止プログラム)です。
拙まとめ『監視のみでよいのか、CAP「子どもへの暴力防止プログラム」について』http://togetter.com/li/292872 に書いたように:
「CAPの基本である、NO・GO・TELL=嫌だと言う⇒逃げる⇒信頼できる人に話す、が重要」ではあるが、
「最後の最重要な「信頼できる人に話す」ためには、良い関係の人の存在が前提であり、結局これがキモかと」
というように、弱い立場の側の子どもの小さな声を受け止める「信頼できるおとな」の存在のような“場”や人間関係がまず必要なのではないでしょうか。

2014/12/16(火) 午前 1:22 [ @hijijikiki ]

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 spitzibara氏の投稿:

> @hijijikikiさん

お久しぶりです。コメントありがとうございます。まったく同感です。

まさに、その「対話」を、中でも生命倫理学と障害学や障害者運動に呼びかけているのがウーレットの『生命倫理学と障害学の対話』なんです。そして、強い側である生命倫理学のほうにより多くの努力を払う必要があるとも書いています。それは、医療職と患者や家族とか、専門職と支援を受ける立場にある人たちとか、hijijikikiさんが触れておられる多くの関係に当てはまるメッセージのように思います。よかったら、お手にとっていただけると幸いです。

2014/12/16(火) 午後 5:01 [ spi*zi*ara2 ]

> @hijijikikiさん

「まず最初に、弱い立場の側が自分(たち)で自分(たち)の小さな声を聞いて確認し、共有すること」。これは本当に大切なことですね。ただ、実際に「要請」しようとすると、まず強いものからにらまれるのを恐れる仲間内から足を引っ張られることを覚悟しておかないといけないという現実が、なんともやりきれないんですけど。田中美津さんが「自分だけは甘い蜜を吸いたいと奴隷頭になろうとする奴隷根性」みたい言い方をしていた、あれですね。まぁ、そういうのにメゲずに「要請」を続けていく努力しか他に方法もないですね。

2014/12/16(火) 午後 5:10 [ spi*zi*ara2 ]

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 @hijijikikiの投稿:

ウーレットの本のご紹介ありがとうございます。机上にチラ見しただけの積読(つんどく)本が山になっていますが(笑)、興味深そうな内容なので、購入しようと思います。

「実際に「要請」しようとすると、まず強いものからにらまれるのを恐れる仲間内から足を引っ張られることを覚悟しておかないといけないという現実」>これは力関係の非対称がある(ほとんどの場合そうです)ような場、組織、運動などなどによく見られることですね。
組織や運動の本来の目的とはかけ離れた内部抗争や反目や足の引っ張り合いなどは、会社勤めをやっていたときにさんざん経験しましたが、同じことは障害者運動や女性解放運動や左翼運動などの、弱い立場の側に立つことを本来の目的としていたはずの運動でも生じてきたことは、その運動自体の正当性すらも疑問視されることにつながるような大きな問題でしょう。田中美津氏は女性という弱い立場に配慮せず、セクハラやパワハラ(当時はこの言葉はなかったが)を繰り返していた左翼運動を批判していたと思います。

2014/12/17(水) 午後 10:41 [ @hijijikiki ]

そういう場合に、コメント欄にある「賢く立ち居振る舞い、相手(男=強い立場)をよいしょ」するような行動なら、“実害”がなければ、弱い立場の側としては“よりよく生きる”ためには仕方がないことなのかもしれませんが、「仲間の足を引っ張る」ようなこと、例えばセクハラやパワハラを許容したり不問にしたりするようなことがあれば、仲間として一緒にやってゆくことがそもそも可能なのか問題になると思います。

自民党の「女性閣僚」が「女性の活用」という売り文句で鳴り物入りで登用されたこと自体は、なにはともあれ形としては“女性の社会進出”なのかもしれませんが、「女性は家庭に」とか「女性は女性らしく」などの男女差別廃止や女性の地位向上と正反対の発言が示すのは、弱い立場にある女性を従来通りの弱い立場に固定しておくという男社会=強い立場の差別・格差による“既得権益”を良しとする側に立つもので、「名誉男性」であるだけでなく、「奴隷頭になろうとする奴隷根性」を担う役割を期待されているのでしょう。

2014/12/17(水) 午後 10:43 [ @hijijikiki ]

これを反面教師として、弱い立場が注目されたり、“社会進出”したりする場合には、それが本当に弱い立場の側のどのような利益になっているのか、そのたび毎に検討する必要を改めて感じます。

2014/12/17(水) 午後 10:44 [ @hijijikiki ]

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 spitzibara氏の投稿:

> @hijijikikiさん

あはは。実は私もmegumiさんのコメントから連想したのが、まさにその自民党の「女性閣僚」だったんですよ。「奴隷頭」の連想も、そこに連なって出てきたもので。

いろんな差別の問題に繋がることだろうと思いますが、個々人が差別が根深く織り込まれた自身の固有の環境の中で自分なりに生きようと選択を迫られる中では、強い者の論理を飲み込むしかなかったり、不本意にも強いものに「媚びていく」ような「賢さ」も「武器」にせざるを得ない状況もあるだろうとは思うのですが、それを自覚しておく、ということが実はとても難しいけれど、やっぱり大事なことなんじゃないでしょうか。それを個々が生きるためにやむをえないことと受け止めるのではなく、自分と同じように差別されている側に対して「そうすべきだ」とか「それが自分たちの美徳だ」などと説き始めた時に、「奴隷頭」になるんだと思います。

2014/12/18(木) 午前 9:29 [ spi*zi*ara2 ]

> @hijijikikiさん

『生命倫理学と障害学の対話』ご購入いただけるとのこと、ありがとうございます。ご感想など、またお聞かせていただけると嬉しいです。

ウーレットの言っていることの何をどう評価し、何をどう批判するのか、日本の生命倫理学と障害学や障害者運動それぞれの立場の方々からの議論のきっかけになってほしい本だと思っています。

2014/12/18(木) 午前 9:32 [ spi*zi*ara2 ]

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 @hijijikikiの投稿:

「不本意にも強いものに「媚びていく」ような「賢さ」も「武器」に…それを自覚しておく、ということが実はとても難しいけれど、やっぱり大事なこと」>同感です。ここで、誰が誰に対して何をどのように「自覚」するのか、何のために自覚が必要なのかが重要だと思います。

強い立場と弱い立場の関係を作り上げ、固定し、再生産している制度や上下関係、支配被支配関係を受け入れ、それに沿って生きなければ、より良く生きられない状況があります。それらを受け入れてそれらに沿った結果、強い立場の側:例えば男性の側と同等の地位や権力・影響力を身につけた人=“名誉男性”に対しては、その地位や権力・影響力に見合った「自覚」、その人の権力・影響力を弱い立場を固定化・悪化させたり、そうすることを正当化したりする「奴隷頭」にならないような「自覚」を求めることが、弱い立場の側の人たちにとって必要に思われます(自分で自分に自覚を求めることも含めて)。

2014/12/19(金) 午前 1:54 [ @hijijikiki ]

しかし単に制度や上下関係、支配被支配関係を受け入れ、それに沿って生きていることそれ自体に関しては、それを自分から「自覚」(しようと)することはとても重要で大事なことだと思うのですが、それを後ろめたく思ったり、裏切りだと思ったりする必要はないと思うのです。
むしろ今自分がある・置かれている・生きている状況にいる生身の自分から始めて、自分(たち)の状況や生活や待遇を改善して“より良く生きる”方向をめざすこと。例えば、田中美津氏の:
『…「結婚している女一般」を生きている人なんてどこにもいない…私にとってはいつだって好きな結婚と嫌いな結婚があるだけよ。
それに人には楽を選ぶ権利があるし。私だって主義主張から「未婚の母」になったわけじゃない…結婚が楽だと思う人はそうしたらって思う。』

2014/12/19(金) 午前 1:55 [ @hijijikiki ]

更に:
『世の中がどうなろうと、この今、この私が惨めであってたまるか!という思いはみな強烈にあったから。
自分と世界をカクメイする、つまりじぶんのぐるりのことからつなげて世界を見て行く、変えて行く。そうでないと、自分一人も解放できない解放運動になってしまう。世のため人のためにがんばって立派だけど、あんまり幸せそうじゃない・・・というような人や運動が多すぎるから、そういうものにはなるまいと、私たちは最初から思っていた。』
(「岩崎稔他『戦後日本スタディーズ2:60・70年代』紀伊国屋書店 2009:「インタビュー田中美津」聞き手:北原みのり、上野千鶴子」 ←拙まとめ『緩和ケアの差別的な使われ方と、ロー・セオリーからの反撃』http://togetter.com/li/485134 の末尾にこの周辺の引用と共に加入しました)。

2014/12/19(金) 午前 1:56 [ @hijijikiki ]

田中美津氏のこの引用部分から、前述の「自覚」とは"逆"の方向からの「自覚」(両方の自覚は本来同一地点に来るはずだと思いますが)があるように感じます。

それは、前に拙まとめ『尊厳と負い目・負債の扱われ方と能力・業績主義:犠牲/業績の累進性の呪縛』http://togetter.com/li/698673 で述べた、
「人間同士の関係性、相互性から、「全ての人の自由(権)と生存(権)を尊重するべきだ」ということは言える」という感覚。
すなわち自分(たち)や社会のことを自分(たち)の立場で自分(たち)の欲求や要求から考えてゆくときに、
「「私はあなたに私の自由と生存を尊重して欲しい。」と思った/言った場合に、逆に「あなた」という人間からも同じことを要求されるし、それを相互に認めあうことが必要である、ということを我々は知っていて、実際に多くの場面でそれを実践している」
ということを田中氏や女性運動のある部分は、運動や生活の実践の中でやってきたのではないか、と感じさせるものです。

2014/12/19(金) 午前 2:58 [ @hijijikiki ]

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 spitzibara氏の投稿:

> @hijijikikiさん

おはようございます。

「奴隷頭」が個々の存在に対して求めてくる「同化・奴隷化」にも、逆に運動が個々の存在に対して求めてくる「正しさ」にも、等しく疑いの目と指弾の指を向けつつ、その2つをともに自分自身にも転じるということが「自覚」であり、その「自覚」に立ったうえで、「奴隷頭」を利用する強い者たちのカラクリと、「正しさ」に取り込まれてしまう運動のあり方を再び問い直す、ということ、その循環なのだろうと思います。ただ、そう「自覚」すれば、自分の中に、「踏みつけられるもの」の痛みと「踏みつけるものでしかありえない」痛みとを抱えむことになるから、そこでものを考えるということは、ことごとく、両者の間で引き裂かれ続けることであって、それはひりひりと痛く苦しく、どこまでいっても、さっぱりと白黒つかない果てのない挑戦にならざるを得ない。それが田中美津の言う「取り乱し」ではないか、と。で、唯一の希望は、同じような「取り乱し」を通じてものを見、ものを考えている人と出会うことの中にある。

2014/12/19(金) 午前 8:35 [ spi*zi*ara2 ]

私はこの「取り乱し」が、昨日のエントリーで書いた佐野洋子の「生活の外にはイマジネーションはない」というところと重なりました。hijijikikiさんが「運動や生活の実践の中でやってきた」といわれることと同じですね。「考え、ものを言うことと、オムツを変え、ビニール袋の中でゴミを分別することとの間に違いがない」ということですよね。

後者を弱く貧しいものに押し付けて、頭だけで(それだけが)生産的な(つもりの)仕事をこなしては、後者を押し付けられている人たちを非生産的な無能力者のように差別してきた人たちの価値観が、科学とテクノロジーで可能になった諸々によって掘り起こされた欲望を通じて、人の世に広がりつつあるんだろうなぁ、という気がします。

2014/12/19(金) 午前 8:44 [ spi*zi*ara2 ]

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■■ (以下は、同ブログ:

 ★「 2014年12月19日のメモ 2014/12/19(金) 午前 11:33 」

http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara2/64408763.html のコメント欄への投稿) ■■
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リンク 海やアシュリーのいる風景 2014年12月19日のメモ - 海やアシュリーのいる風景 WI大病院が障害者の肺炎治療を差し控え、一人が死亡 (2009/5/20)で取り上げた訴訟の、上訴裁判決が出たので、 判決文 をざっと読んでみたんだけど、法解釈の議論がよく分からない。DRWの戦略ミスということなのか。訴訟の意図とはまったく...

 

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 @hijijikikiの投稿:

佐野洋子氏のエントリーのご紹介ありがとうございました。
「考え、ものを言うことと、オムツを変え、ビニール袋の中でゴミを分別することとの間に違いがない」というのは、前者は“男の仕事”とされ、後者は“女の仕事”とされる家事・育児・介護労働などなどの、生活や(自分や他人の)世話をするため=生きるための最も基本的で重要な労働のことでしょう。

強い立場=主流の側は“男の仕事”ができること、その成果によって自らの強い立場を築いてきた故に、その大多数は当然のことのように“男の仕事”とそれにより得られたものの価値を高く置き、“女の仕事”の価値や重要性を評価しないばかりか、不当に低く貶めて、粗末に扱っているのでは。

現状では、特に近年益々、家事・育児・介護などの生きる・生活するための最も基本的な労働の重要性を軽視して、それらに劣悪な待遇や低い支払い、不十分な支援しかしようとしない。その不十分さの理由として、「家族が担うべき」「誰でもできる」「専門的知識や技術が不要」などを挙げているが、それらの理由が待遇や支払いや支援が劣悪であってもよい理由とはならないはずです。

2014/12/21(日) 午前 1:02 [ @hijijikiki ]

ウーマンリブやフェミニズムなどの女性運動は、この“女の仕事”に対する不当な扱いを問題にして解決しようとしてきました。その流れから様々な弱い立場の側の様々な小さな声(“女の仕事”に対する不当な扱いへの不満や改善要求もその一つです)を聞く運動や動きが出てきましたが、その一例が前述の自助グループや当事者グループやピアサポートやCAPなどでしょう。

強い立場=主流の側のやり方や彼らが自身を正当化する言説に対して、そのような弱い立場の側の運動は、どう対応してきたかについて、「対話により…自分(たち)の小さな声を共有し、確認したその延長線上で、強い立場=男・健常者・上位者・管理者・行政などに対して小さな声を聞くように要請する」と書きましたが、そのための方策はどうすればよいのか?

また、ご指摘の、『「奴隷頭」が個々の存在に対して求めてくる「同化・奴隷化」』と、『運動が個々の存在に対して求めてくる「正しさ」』の両方に対する「自覚」により『両者の間で引き裂かれ』ることに対してどうすればよいのか?

2014/12/21(日) 午前 1:05 [ @hijijikiki ]

これを考えていて、昨年のspitzibaraさんとのやり取りの拙まとめ『緩和ケアの差別的な使われ方と、ロー・セオリーからの反撃』http://togetter.com/li/485134 にある:
整合性を求める分析的な言説「高踏理論(ハイ・セオリー)」の対立項であるロー・セオリー(低理論)すなわち、

『「根底的な、低いところからの異議」、自由や生存権や再分配などの原理的な問いを、「人がどう言おうがこれが正しい」という路線で考え、「価値観の回転」によりそれ=低いところ、が多数、即ち「民意」になる方向性がある…』
というのを思い出しました。

このロー・セオリーを弱い立場の“小さな声”から始まる、小さな声の側の理論として、強い立場の“大きな声”を支えるハイ・セオリーによる支配をくつがえしてゆくような方向に、当事者や支援者が対話を繰り返して発展させてゆくことに、弱い立場の側の運動の可能性があるのではないでしょうか。

2014/12/21(日) 午前 1:07 [ @hijijikiki ]

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 spitzibara氏の投稿:

おはようございます。

このムックの中のどこだったか忘れたんですけど、佐野洋子さんが「人類は滅びに向かっている」と語っているんですけど、私も2007年にアシュリー事件を通じてトランスヒューマニズムや「科学とテクノで簡単解決バンザイ」文化とその利権構造の存在を知った時から、ずっと感じているのも、そういう絶望だなぁ、と思いました。ただ、佐野さんは、だからと言って個々の私たちが日々をシアワセに生きられないとか、生きてはならないということにはならない、と言って、その絶望に自分自身の生活が取り込まれてしまうことは拒絶していくんですね。それが「生活」を失わずに物を考えることの強さなんだなぁ、とも思いました。

2014/12/22(月) 午前 9:32 [ spi*zi*ara2 ]

私はブログをやり始めた頃に、トランスヒューマニストの親玉のボスとラムという人物が当時、人類が滅びるシナリオをいくつか挙げていたんですけど、私は彼らの描く科学とテクノのユートピアについて読みかじるたびに、人類は自らの愚かさによって滅びに向かうんだなぁ、という思いを強くしていきました。

森達也さんが上でリンクした文章で語っておられるように、日本の政治体制の問題として今こういう絶望を共有している人は多いと思いますが、それは本当は日本という小さな国の中でだけ起こっていることではなくて、グローバルに起こっていることだし、だからこそ、余計に絶望的だとも思う。もちろん森さんはそんなことはとっくに了解しておられるだろうし、そしてこれを書いた後にもやっぱり語り続けていかれるのだろうし、そういう絶望しつつ諦めてしまうこともできないところにある思いが人をつなげていくということに、せめて希望を見出したい気がしています。

2014/12/22(月) 午前 9:40 [ spi*zi*ara2 ]

それは佐野さんが言うように、人類が滅亡に向かっていて、たぶんそれについてはもはやどうにもできないとしても、自分は毎日を楽しく生活し、生きていくぞ、という姿勢でもあるのかなぁ、とも。

2014/12/22(月) 午前 9:47 [ spi*zi*ara2 ]

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 @hijijikikiの投稿:

こんばんは。
前回、うっかりしてコメントを投稿する欄を間違えてしまいました。

ご紹介の森達也氏の記事「もう投票しなくていい」は、森達也節炸裂、といった感じで、現状に対する強い危機感の表明として受け取りました。
「この国は絶望が足りない」は、「事態の深刻さや重大さへの認識・批判・怒りが足りない」、という点では、全く同感です。

佐野洋子氏の「絶望に自分自身の生活が取り込まれてしまうことは拒絶していく」というのはとても大切なことかと。森氏が足りないと言う「絶望」と、生活や(よりよく)生きてゆくこととは関連していても、ある意味で次元が違うことで、「絶望」を、よりよく生きてゆくことに、どう繋げてゆくかを考えてゆきたいと思います。

2014/12/23(火) 午前 1:40 [ @hijijikiki ]

それは、強い立場の高踏理論(ハイ・セオリー)(とは言っても見かけだけの“理論”や空論が多いですが)によって支配された世界への「絶望」を、私(たち)の共有する生きていることの根底からの異議として、他の人=社会にどのような形で伝えてゆくか。すべての人が生きていること・生活していること、それが最も重要であるということにどう繋げてゆくか、共有してゆくかという課題です。

この辺の問題はなかなか言葉で言い表しにくく、抽象的になってしまって恐縮です。
年末のお忙しいときに、やり取りにお付き合いいただきありがとうございました。
来年もよろしくお願いします。

2014/12/23(火) 午前 1:41 [ @hijijikiki ]

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 spitzibara氏の投稿:

> @hijijikikiさん

おはようございます。このたびもまた刺激に満ちたやりとりを、ありがとうございました。

ピーター・シンガーの一番弟子のジュリアン・サヴレスキュがどうやら「生命倫理は道徳に阻止されて、本来の機能をはたすことができずにきた」みたいなボヤキをどこかのジャーナルに書いたらしいんですけど、彼がそこで「哲学」と呼んでいるものがhijijikikiさんのおっしゃる「ハイ・セオリー」なんだろうなぁ、と想像しつつ、一見ブイブイいわしていると見える功利主義陣営かがこういう敗色濃い声が出てきたのかと興味深く、近くエントリーにしたいなぁ、と思っています。

どうぞ良いクリスマス、良い年をお迎えください。来年もよろしくお願いいたします。

2014/12/23(火) 午前 8:44 [ spi*zi*ara2 ]
 
 

 

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■「男性国会議員の育休議論 「ケア」を軽視する社会」関連ツイート■

 

さいき まこ11月20日【言え誰】⑥巻完結 @SaikiMako

『本質的な問題は「この社会ではケア責任を負う人が差別を受ける」ということ。差別を生み出すのは「ケア」を軽視する価値観』 『ケア軽視のまま女性の社会進出を進めても根本的な問題は解決しない』 男性国会議員の育休議論「ケア」を軽視する社会 dual.nikkei.co.jp/article.aspx?i…

2016-01-18 10:47:06
ひじじきき @hijijikiki

「ある一時期「家族を優先させたい」と意思表明したことで、批判されているのです。批判の根底には、「仕事は常に家族生活より優先されるべき」という価値観」 男性国会議員の育休議論 「ケア」を軽視する社会 | 治部れんげの「怒れ!30代」dual.nikkei.co.jp/article.aspx?i…

2016-01-18 12:50:36
ひじじきき @hijijikiki

「ケアを軽視したまま女性の社会進出を進めても、根本的な問題は解決しない…長年、女性が担ってきたケア責任を軽んじて、女性を男性化するような「活躍推進」は持続可能ではない」 男性国会議員の育休議論 「ケア」を軽視する社会 | 治部れんげdual.nikkei.co.jp/article.aspx?i…

2016-01-18 12:53:00
ひじじきき @hijijikiki

「ケアは育児や介護、看護、そして自身の心身をいたわることが含まれます。コンペティションは競争…仕事には多かれ少なかれ競争がつきもの…「コンペティションはお金を生み、ケアは人をつくる」」 男性国会議員の育休議論 「ケア」を軽視する社会dual.nikkei.co.jp/article.aspx?i…

2016-01-18 12:56:16
リンク 日経DUAL 男性国会議員の育休議論 「ケア」を軽視する社会 | 治部れんげの「怒れ!30代」 | 日経DUAL こんにちは、治部れんげです。今回は昨年末に男性国会議員が育休取得を表明して以後、活発に議論されている「国会議員(男性)の育休取得」というテーマを取り上げます。皆さんは、いかがお考えですか? 昨年末から

 
 

 
海老原弘子氏のBlog"Ramon Book Project"の

 ●「魔女狩りと福祉国家 」

https://ramonbook.wordpress.com/2016/02/21/bruixes-i-benestar/
からの抜粋ツイート:
 

リンク Ramon Book Project 魔女狩りと福祉国家 以前、カタルーニャの伝説の研究をしている人と話す機会がありました。地中海の反対側に位置する北アフ…
ひじじきき @hijijikiki

「スペインで最初に男女同権を唱えたのは社会変革は女性の解放なしには不可能と考えたアナキスト…スペインのフェミニズムのベースにあるのも資本主義を支える男性中心の父権的な社会が女性を抑圧しているという考え方」 魔女狩りと福祉国家ramonbook.wordpress.com/2016/02/21/bru…

2016-03-24 21:33:06
ひじじきき @hijijikiki

「そのため「現在の社会で男性が有する権利を女性が獲得することで男女同権の実現を目指す」と言うのではなく「結果的に男女同権となるように社会システムの変革の実現を目指す」というのが主流」 魔女狩りと福祉国家 ramonbook.wordpress.com/2016/02/21/bru…

2016-03-24 21:34:28
ひじじきき @hijijikiki

「フェデリチは欧州が封建制社会から資本主義社会へと移行する過程において魔女狩りが果たした役割を糸口にしてジェンダー差別に基づく魔女狩り人種差別に基づく奴隷制、移民差別に基づく不法移民と…資本主義システムの搾取の歴史を紐解いていきます」ramonbook.wordpress.com/2016/02/21/bru…

2016-03-24 21:37:02
ひじじきき @hijijikiki

「フェデリチは再生産労働という概念を用いることで、この賃金の問題にさらに深く切り込み…再生産労働というのは労働力を再生産する労働のことですが、労働力となる人間を再生産する出産と子育てに限らず、労働力となる人材を育てるための教育」(続くramonbook.wordpress.com/2016/02/21/bru…

2016-03-24 21:40:52
ひじじきき @hijijikiki

続き) 「働けなくなった人を治療して再び労働力として社会に送り出す医療、労働力として社会に貢献してきた人を世話する高齢者介護なども含まれ…子育てや高齢者介護といった基本的に家族の中で女性が担ってきた分野の労働がケア・世話と呼ばれ」ramonbook.wordpress.com/2016/02/21/bru…

2016-03-24 21:42:55
ひじじきき @hijijikiki

「フェデリチは「この再生産労働の価値が認められていないのが賃金が下がり続ける原因で、根本的な問題は労働力という生産コストの継続的な切り下げを必要と する資本主義だ」と主張します」(続く) 魔女狩りと福祉国家 ramonbook.wordpress.com/2016/02/21/bru…

2016-03-24 21:44:30
ひじじきき @hijijikiki

(続き) 「供給が需要を上回れば価値は上がるはずなのに、高齢者介護や託児所といった明らかに供給が不足している職種の賃金や待遇が一向に良くならないのは、資本主義というシステムが原因だというわけです」 魔女狩りと福祉国家 ramonbook.wordpress.com/2016/02/21/bru…

2016-03-24 21:47:25
ひじじきき @hijijikiki

「いわゆる社会保障や福祉というのもこの再生産労働を示す言葉で、欧州の福祉国家というモデルは国家を中心に社会的なコストと して再生産労働の問題を取り扱う試みでもありました」 魔女狩りと福祉国家 ramonbook.wordpress.com/2016/02/21/bru…

2016-03-24 21:49:18
ひじじきき @hijijikiki

「福祉国家モデルの問題点は、コストというネガティブな捉え方に、再生産労働に経済的価値を認めない資本主義的な視点が隠れていること。コストと考えるから「緊縮財政の下で削減しなければならない」という判断になる」 魔女狩りと福祉国家 ramonbook.wordpress.com/2016/02/21/bru…

2016-03-24 21:50:37
ひじじきき @hijijikiki

「バルセロナ市…は福祉の問題を雇用創出に繋げて経済の活性化に用いるという戦略を発表しました。社会的なコストとみなされてきた福祉の分野を経済的利益を生み出すセクターに変えるという野心的なプラン」(続く) 魔女狩りと福祉国家 ramonbook.wordpress.com/2016/02/21/bru…

2016-03-24 21:55:46