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関連まとめ
ちょっと話が違いますけどハーモニーみたいな「福祉国家を発展させたら萌え4コマになって涅槃に行った件」とでもいうような超ユートピア小説をディストピア読みしちゃうのってどうなのとか思いました いや、読みは自由ですけれど
2015-10-05 03:08:45あのCMを批判することと非西洋の文化を後進だ野蛮だといって改めさせる植民地主義って同根だと思うんですよね 進路が決まった女の子の笑顔をそんな簡単に否定できるの? その進路がブラック企業ならともかく、あの世界観ではそうじゃないじゃん フィクションを異文化としてきちんと受け止めようよ
2015-10-05 05:19:09フィクションが無意味なら気遣いとか配慮とか全部無意味だって話ですよ でも違うじゃん 気遣いとか配慮が大事だって、みんなぼくたちに教育してきたじゃん じゃあなんであの子の気持ちを無視するんだよ 気遣いなんて建前ですか そうですか うわーん(T_T)
2015-10-05 05:28:00フィクションをわれわれとは関係ない夢想だと切り捨てるなら、気遣いも思いやりも民主主義も全部不要ですよ 隣人の幸福をそんな簡単に無視できるなら、プラトンもルソーもただの道化ですよ 人類の歴史に意味なんてないですよ
2015-10-05 05:40:39規制とかの話で、現実とフィクションは別という戦術をとるのは、まあ理解できるものの、ほんとは異文化の尊重(われわれとは異なる営為で悦ぶひとがいる)ということを主張してほしいわけですよ せっかく、偉い人たちが非実在青少年の存在を認識してくれたんだから
2015-10-05 05:52:09あの女の子に感情移入して感動したぼくは間違ってなかったってことでいいですよね? / ブレンディ炎上CM 制作意図をAGFに直撃 wotopi.jp/archives/27641
2015-10-08 11:47:17この元長柾木によるブレンディCM評というか、ブレンディCMに対する世評に対する批判について、どこかピントがズレているような感じがするので、それについてちょっと連投する。
2015-10-08 15:12:52このピントのズレというのは、「あの女の子は幸福である。」という判断と「この作品はディストピアものである。」という判断とでは、そもそもスコープが違うからではないか、ということ。前者はフィクショナルな判断で、後者は非フィクショナルな判断。
2015-10-08 15:14:41つまり、先ほどの二つの判断は、「ブレンディCM世界の中で、あの女の子は幸福である。」「現実世界で、この作品はディストピアものである。」と補うことができる。
2015-10-08 15:15:59で、ある作品がディストピアものであると現実世界において判断することは、その作品が描くフィクション作品の中でその登場人物が幸福であることが偽である、ということには直結しないだろう、と。
2015-10-08 15:17:29例えば、登場人物達がシリアスな意図をもって至ってシリアスな行動を繰り広げるのだが、鑑賞者からはそれが笑えるというタイプの作品がある。このとき、「この作品はコメディだ。」ということは、「その登場人物達がシリアスな行動をしている。」ことを否定しないのと、同様ではないかと思う
2015-10-08 15:18:58あと、ディストピアものというジャンルは、作品世界内では理想的とされる価値観が、現実世界にいる鑑賞者からみると全く理想的ではない、というものだと思う。つまり、作品世界内の判断と現実世界の判断がズレるのが、このジャンルの肝だと思う。
2015-10-08 15:20:57現実世界においてはその価値観がよくないものだと判断する鑑賞者であっても、フィクショナルにその価値観は理想的であると判断する。その作品世界内に入れば、確かに理想的かもしれない、と思わせるのが、面白いディストピアものだと思うし、
2015-10-08 15:22:57この時点で、元長がいう、フィクション世界を異文化として尊重する、というのは達成されているのではないかと、思うのだが、まあちょっとそれは分からないのでおいておく
2015-10-08 15:24:28あのCMに対する批判点は、多くの人のジャンル判断(「この作品はディストピアものである。」)と、作り手・送り手のジャンル判断(「この作品は感動作だ。」)との齟齬にあったのではないかと思う。
2015-10-08 15:25:40