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多くの人は、「「作品内の価値観に従えば、あの女の子は幸福である。」しかし「現実世界の価値観に従えば、あの女の子は幸福ではない。」ゆえに「この作品はディストピアものである。」」と判断したが、「感動作」という判断は、作品内の価値観でも現実の価値観でも幸福であるということになってないか
2015-10-08 15:27:33というか、多くの人はあのCMに対して、あの作品がCMとして出されることによって、あの作品内の価値観が現実においても是認されるべきものとして送り出されているように感じたからこそ、批判しているのであって、あの作品内の少女が作品内で幸福であるかどうかを巡って議論してはいないと思う
2015-10-08 15:29:09僕が思ったのは、ディストピアものであるという判断は、フィクション内で是認される価値観と現実で是認される価値観が相反しているという判断が前提にあると思っています。一方、CM批判側には、(つづきます) twitter.com/motonaga_masak…
2015-10-08 15:45:03CM批判側には、CMとは現実世界で是認される価値観のもと送り出されるという前提があり、CMの送り手は、フィクション内で描かれる価値観が現実においても是認される価値観としてこれを発信したと捉えて、批判していると思います。
2015-10-08 15:46:44つまり、あのCM批判は、結局のところ、現実世界においてどのような価値観を是認するかという現実世界側での価値観のあり方を議論している、現実世界においてあの作品をどうカテゴライズするかという話だったと思います。
2015-10-08 15:51:15例えば、ディストピア作品としてであれば、「確かにあの世界で彼女は幸福だ。」という解釈は妥当ですし、「自分の価値観からすると彼女は幸福には見えないが、しかし、あの世界で彼女が幸福であることは否定できないっ」と懊悩する鑑賞が妥当ですし、
2015-10-08 15:54:13「自分の価値観からすると彼女は幸福には見えないが」というのが、フィクションを現実に服属させる見方だというならば(「ディストピア」の「ディス」は確かに現実世界からの価値判断です)、フィクション内で是認されている(幸福として描かれる)世界を、
2015-10-08 16:00:05現実においても是認しなければならないことになり、これは逆に、現実をフィクションに服属させる(?)見方となってしまい許容できないです。/鑑賞者はフィクションを、「フィクション作品内の価値観で」見たり、「現実世界の価値観で」見たりを行き来するもので、その片方だけで見るものではないかと
2015-10-08 16:02:25ディストピアに見る見方がわからないというのは、他の文化をディストピアという蔑称で呼んで自文化を省みる道具としてのみ利用することをよしとする倫理が理解できないという意味です
2015-10-08 16:48:29こっちについていうと、僕は、「植民地主義」はある程度まではなすべきという立場をとります。完全な文化相対主義でなく、近代ヨーロッパの作った価値観はローカルなものでなくそれなりに普遍性を持つだろうと。
2015-10-08 19:15:58「こっちについて」と言ったのは、元長さんの提起した議論には、「ある価値観を提示する作品をどう鑑賞するか」という問題と「異なる価値観にどう対応するか」という問題があって、区別可能なのではないかと思ったからです。
2015-10-08 19:19:36ディストピアを蔑称と仮定する発想は、個人的にはちょっとよくわからないな……。なぜ理解しがたいかはここではさておくけど、とりあえず、「フレームワークとしてそうしたものが作られてから大分経つけど、状況理解はそのフレームワークが作られてからまた変わっている」とみなした方が適切かと思う。
2015-10-08 19:22:13@tricken 批判とか拒否とかではなく、単純に「いまそのフレームワークは前提として成立するのか」という水準でわからない。
2015-10-08 19:23:02@tricken cultural studiesがなぜ(個々の達成とはべつに、総合的傾向として)一度批判されるに至ったのか、などの近年の議論がすっぽ抜けているのではないかと考えてしまう。
2015-10-08 19:24:43ディストピアは、描かれた文化に対する形容ではなく、作品が属するジャンル名ではないか。どのジャンルに属する作品として鑑賞するかという現実世界での論争、と捉えているので、そこから見ると「ピントのずれた」批判に僕からは見えたわけです
2015-10-08 19:26:13ある作品をディストピアという名の下に鑑賞すること自体が、非倫理的であるというのは、まだうまく呑み込めないところはありますが、僕が最初に思った「ピントのずれた」批判とは位相の違うものなので、「ピントのずれた」にはあたらないというのはわかってきました
2015-10-08 19:28:38仮にあのCMが「ディストピアSF」というジャンルに置けるとして、あれは(ディストピアSF含む)三つの様式美に関して不勉強で、ゆえに駄作であり、文化的倫理を論ずる強度に達していない(だから倫理的問題を構成するに至っていない)というのが僕の立場。その手前の原則論はシノハラ君に全面賛同
2015-10-08 19:29:38ディストピアSFとして倫理を論ずるためには、作品内で意味を構成している必要があると思うんですが、まじめに解釈するほど適切な意味を構成できなくなる(だからそもそもculturalな意味を問いうることができず、作品として意味不明なだけ)というのが自分の読みです。
2015-10-08 19:32:06個人的な見解で、と断ったうえでいいますが、倫理を論じる“言説戦略”的な価値が出てくるのは、 (a)その作品が一定以上の良作である(=誰が見ても一定以上意味が構成されている)時か、 (b) その作品の呈示それ自体が重大な権利侵害である“という利害関係を論者が任じる”時 の2点のみ
2015-10-08 19:39:28@tricken ですから、(a)' さして良作でもなく (b)' 論者が倫理的判断にコミットメントをもつほどの責任も持たない種類の作品について言及する“言説戦略”的な意味は――少なくとも自分は――感じない。これは自分が論じる時もそうだし、他人の批評を読む時もそうです。
2015-10-08 19:40:55@tricken もちろん、ある作品に対し (b) の流れ(=倫理的に咎がある、したがって批判され、できれば撤回されるべきだ、と一定以上の論者が政治する)があるのは、どんな作品にもあることですが、それ以上に(a) の面で全く説得的でない作品は、そもそも相手取る必要があるのか。
2015-10-08 19:43:32