『スペイン岬の謎』と後期クイーン的問題

スペイン岬の謎と後期クイーン的問題について
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@quantumspin

まとめを更新しました。「チャイナ橙の謎と後期クイーン的問題」 togetter.com/li/900393

2015-11-15 16:52:03
@quantumspin

【スペイン岬の謎 (創元推理文庫 104-13)/エラリー・クイーン】本作の挑戦状には、挑戦形式に不慣れな読者に向け注意喚起がなされている。『推理小説から最高度の悦楽を得るためには、読者は、ある程度、... →bookmeter.com/cmt/52706632 #bookmeter

2015-12-20 12:40:43
@quantumspin

『シャム双子の謎』で挑戦形式を一旦削除したクイーンは、続く『チャイナ橙の謎』でそれを戦略的に復活させる。しかし、そこにはまだ〝犯人〟の文字がなく、いわゆる〝犯人当て〟としての読解は封じられたままだ。〝犯人当て〟としての挑戦形式が復活するのは、次の『スペイン岬の謎』においてである。

2015-12-09 21:23:20
@quantumspin

『スペイン岬の謎』は、飯城勇三によれば、『<読者への挑戦>ものとしては、『オランダ靴』に匹敵する完成度を誇っている。』そうだ。しかし、クイーンはなぜ、そのような高い完成度を誇る<読者への挑戦>ものを、『シャム双子の謎』『チャイナ橙の謎』で挑戦形式の再検討を行った後に発表したのか。

2015-12-09 21:39:04
@quantumspin

『スペイン岬の謎』を最後に、クイーンは国名シリーズを打ち切る。このタイミングで〝犯人当て〟としての挑戦形式を復活させたクイーンの真意について、飯城は『これだけ高水準の長編を書いてしまったことが、クイーンが国名シリーズを『スペイン岬』で打ち切った理由なのかもしれない』と分析する。

2015-12-09 23:31:16
@quantumspin

一方、法月は『密室―クイーンの場合』の中で『『チャイナ橙の謎』で試みられた「密室」の「脱―不可能化」と全く同じ手続きが、その次に書かれた『スペイン岬の謎』の「足跡の不在」をめぐる論証でも繰り返されている』『おそらくクイーンは、前作に対する批判を克服しようとしたのだろう』と指摘する

2015-12-10 21:14:16
@quantumspin

法月曰く、『わたしにとって興味深いのは、『チャイナ橙の謎』にしろ、『スペイン岬の謎』にしろ、「密室」、あるいは「足跡のない殺人」テーマを扱いながら、「脱―不可能化」、すなわち冒頭の謎の不可能性をいったんカッコに入れてしまうような書き方を、クイーンがあえて選んでいる、ということだ』

2015-12-10 21:20:36
@quantumspin

『言いかえれば、「あべこべの犯行現場」や「一糸まとわぬ全裸の男の死体」という奇妙な謎は、トリックの眼目における謎の「不可能興味の不在」を補完するために、わざわざ導入されたものにほかならない。』法月の解釈には説得力があるが、ならば『スペイン岬の謎』は前作の焼き直しに過ぎない事になる

2015-12-10 21:28:19
@quantumspin

はたして本当にそうなのだろうか。というのも、容易にわかるように、『スペイン岬の謎』と『チャイナ橙の謎』の類似性は、単なる〝冒頭の謎をいったんカッコに入れてしまうような書き方〟に留まらないのである。例えば、どちらも死体に何らかの細工が施されており、探偵はそこから犯人の意図を推理する

2015-12-10 21:33:00
@quantumspin

冒頭の手掛かりだけで推理可能な作品構造も類似しているし、何より、どちらも死体と犯人とは断絶され、逆に犯人以外のだれでも被害者を殺害する事ができてしまう人物配置もそっくりである。という事は、『チャイナ橙の謎』で提出されたあべこべテーマは『スペイン岬の謎』においても反復されている。

2015-12-10 21:38:53
@quantumspin

これほど両作品の構造が類似していると、そこには前作に対する批判の克服以上の意図を感じる。『スペイン岬の謎』が、国名シリーズ最終作にして、『シャム双子の謎』『チャイナ橙の謎』で挑戦形式の再検討を行った直後に書かれた作品である事を踏まえると、そこには何か作者の意図が隠れていそうである

2015-12-10 21:50:58
@quantumspin

『スペイン岬の謎』の謎を理解する為に、本作の〝読者への挑戦〟ものとしての完成度を見ていきたい。解決編の中でエラリーは、犯人が被害者の衣類をはいで、着衣をそっくり持ち去った理由について、『殺された犠牲者の衣類を泥棒する場合、それを説明し得る理論は、ただ5つしかありえない』と断言する

2015-12-12 08:44:20
@quantumspin

ところで問題編でエラリーは、『これはたんなる、精神病医のための問題かもしれません。そうだとすれば、たとえば、見捨てられた女がいて、性的偏執症状を起こしかけていたら……』と述べ、判事の批判に対し『僕は論理的な精神をもっているんです』と反論している。しかしその理論は解決編で示されない

2015-12-12 08:53:50
@quantumspin

この事は何を意味するだろうか。エラリーはたしかにはっきりと、精神異常者の犯行の可能性を論理的としながらも、その可能性を〝殺された犠牲者の衣類を泥棒する場合、それを説明し得る理論〟の中に含めないのである。この例に限らず、着衣を泥棒した犯人の意図は、恐らく無数に考える事ができる。

2015-12-12 08:58:20
@quantumspin

例えば犯人は被害者を辱める為に丸裸にした、という説明も成立つだろう。あるいは、着衣ではなく被害者が裸である事のほうが重要であった可能性はなぜ除外できるのか。エラリーはこれらあらゆる犯人の意図について検討し、それに対する論理的な解答を提示しようとは考えていないのではないだろうか。

2015-12-12 09:05:42
@quantumspin

重要なのは、作者クイーンが犯人の意図を網羅できてない事実に自覚的でありながら、あえてエラリーに〝それを説明し得る理論は、ただ5つしかありえない〟と言わせた事だ。面白い事に『スペイン岬の謎』においては、〝<読者への挑戦>ものとしての高い完成度〟がその事実を覆い隠す機能を担っている。

2015-12-12 09:19:19
@quantumspin

『スペイン岬の謎』だけしか読んでいない読者であれば、本作を〝高い完成度を誇る<読者への挑戦>もの〟といっても何ら不思議でない。初期挑戦形式の迫力は本作にも十分備わっている。しかし、『チャイナ橙の謎』を通過し、両者の類似性に気付いた読者は、おそらくそうは読まないのではないだろうか。

2015-12-12 09:28:33
@quantumspin

なぜならば、前述の通り、『チャイナ橙の謎』において探偵エラリーは、あべこべの謎に振り回された揚句、『たんに(手掛かりを)隠そうとして、なにもかもさかさにしたので、それが持つ含意には気づかなかったのでしょう』と結論し、自身の〝犯人の意図の探究〟が失敗に終わった事を認めているからだ。

2015-12-12 09:31:51
@quantumspin

『チャイナ橙の謎』においては、犯人の意図をいくら探究しても、被害者の素姓には辿りつかない。作者クイーンは、国名シリーズを順番に読んで来た読者にだけ、この意図の探究の困難を気付かせるため、あえて『スペイン岬の謎』を『チャイナ橙の謎』の作品構造をなぞるように書いたのではないだろうか。

2015-12-12 09:43:26
@quantumspin

このように見ていくと、『スペイン岬の謎』の挑戦状には、挑戦形式に不慣れな読者に向け注意喚起がなされている事に気付くのである。『推理小説から最高度の悦楽を得るためには、読者は、ある程度、探偵の足跡を再びたどる努力をしなくてはならぬ』など、経験豊かな読者に対し今更言うセリフではない。

2015-12-12 09:50:26
@quantumspin

作者クイーンは、『(読者への挑戦を)いまだ一度も試みたことのない読者たちには、私は、試みて見られるように心からお勧めする』のである。即ち、本作の挑戦状は、挑戦形式をほぼ初経験する、少なくとも『チャイナ橙の謎』は読んでいない筈の、読者に向けて差し挟まれているものではないだろうか。

2015-12-12 09:56:39
@quantumspin

言いかえれば、『スペイン岬の謎』における〝読者への挑戦〟の特異性は、本作単体で見れば、どこから見ても挑戦状そのものであるにもかかわらず、国名シリーズを順番に読むことによって、あたかも『シャム双子の謎』のように、消失してしまうかのように書かれているという事にあるのではないだろうか。

2015-12-12 10:20:17
@quantumspin

経験的手掛かりという公理系からの唯一解の導出という、<読者への挑戦>を創始したクイーンは、『スペイン岬の謎』において、人工的手掛かりを公理とする犯人の意図の分析を、あたかも唯一解であるかのうように描いていく。それが原理的に不可能である事を、恐らく作者クイーンは強く自覚している。

2015-12-12 12:22:16
@quantumspin

そして、むしろその不可解な人間の意図の分析こそを重視し、経験的手掛かりに基づく分析と同じレベルにまで迫ろうとする。国名シリーズ後半のクイーンは、ほとんどこの問題と格闘し続けているといってよい。そこに浮かび上がるのは、初期挑戦形式の限界と、その拡張を模索する作家の真摯な姿である。

2015-12-12 12:52:15
@quantumspin

法月は『初期クイーン論』の中で『クイーンはこの小説(シャム双子の謎)を通じて、「本格推理小説」の基礎の不在を証明したといってよい』という。しかし『シャム双子の謎』から『スペイン岬の謎』を通じ作者クイーンが明らかにしようとしていたのは〝「本格推理小説」の基礎の不在〟ではないだろう。

2015-12-12 13:10:37