『父』と『子』と『精霊』と後期クイーン的問題

〝十日間の不思議〟〝九尾の猫〟〝ダブル・ダブル〟の考察
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@quantumspin

まとめを更新しました。「中途の家と後期クイーン的問題」 togetter.com/li/917738

2015-12-28 10:00:27
@quantumspin

法月綸太郎は『大量死と密室』の中で、クイーンの『九尾の猫』を論じている。法月によれば、『『九尾の猫』をつらぬく支配的なモチーフは、二十世紀の大量死の現実に抗して、個体のかけがえのない単独性を「名前」によって死守することでる』。法月はその根拠を、本作を貫く名前へのこだわりに求める。

2016-01-09 08:03:34
@quantumspin

法月は本作におけるクイーンの名前へのこだわりを、個体のかけがえのない単独性を確保しようとする意志と捉える。『「一つ一つの死を特別のものにするのは愛だとエラリイは思った」。むろん、ここでいう「愛」とは(…)「名前」と言い換えることによってしか、表現できないような何かである』のだ。

2016-01-09 08:11:02
@quantumspin

法月の『大量死と密室』における一連の論考に対し、巽昌章は、『法月綸太郎論/「二」の悲劇』のなかで、『その読解は感動的だが、同時に違和感を抱かせるものでもあった。それはまさに、推理小説が他者―個人―にどのような視線を向けるものか、という問いにかかわる違和感である』と反論している。

2016-01-09 08:22:00
@quantumspin

『(九尾の猫)や前後する「十日間の不思議」「ダブル・ダブル」で展開される言葉への拘りが、むしろ、「個」を消去する方向に向いていると感じられる事だ。例えば、「十日間の不思議」では旧約聖書―十戒への拘りが全編を覆っているのだが、それは明らかに個人を越えた掟としての言葉』であると見る。

2016-01-09 08:34:06
@quantumspin

『『九尾の猫』になると、犯人自身が無意味な言葉の羅列に操られて機械のように殺戮を繰り返す。そして、「ダブル・ダブル」でクイーンは決定的な台詞を口にする。〝事件が彼(犯人)を操り始めたのです〟(…)被害者たちは童謡の登場人物になぞらえられるばかりで、「固有名」の入る余地はない』

2016-01-09 08:44:41
@quantumspin

『主体を欠く言葉の自動運動。『大量死と密室』には、なぜかこうした面の考察が避けられている』と巽は言う。同時に本論では、探偵がなぜ操られるのかという問題も欠けていると巽は指摘する。巽によれば、『探偵クイーンは、大きな構図、事件の全体を支配するような言葉の体系の発見にたけている』

2016-01-09 08:49:33
@quantumspin

『それは反面で、そうした構図の呪縛に弱いことを意味する。『十日間の不思議』でも、また『九尾の猫』でも、彼はこうした構図の発見に気をとられたがために失敗しているのだ。しかしこれは結局、推理小説そのものの特性の問題に他ならない。(…)構図の誘惑にとらわれるのは、実は読者なのである。』

2016-01-09 08:57:29
@quantumspin

巽昌章の一連の論考は、法月のそれと比べると堅実で、多くの読者が抱く印象なのかもしれないが、作者の意図を十分に汲み取れていないように感じる。例えば、一連のクイーン作品を、巽は『主体を欠く言葉の自動運動』と表現する。しかし、この言葉が本当に相応しいのは、「ダブル・ダブル」だけである。

2016-01-09 09:05:00
@quantumspin

また巽は、探偵がなぜ操られるのかという問題について、探偵エラリーは構図の呪縛に弱いことを指摘するが、むろん、これはエラリーに限った話ではない。巽はこれを、推理小説そのものの特性の問題に他ならない、と捉えるが、作者クイーンが、探偵が失敗する作品を執拗に書き続けた理由にはなっていない

2016-01-09 09:13:10
@quantumspin

そもそもこれら作品で執拗に反復されるテーマは、連鎖する事件の渦中に探偵エラリーが飛び込み、事件の将来を予測し、帰結を操作しようとする、かつて挑戦形式で試みた、スタティックなゲーム空間としては描けない類のものだが、法月も巽も、作者がこうしたテーマに拘る理由を驚くほど無視している。

2016-01-09 09:28:09
@quantumspin

しかも探偵エラリーは、その帰結の操作をことごとく失敗するのである。これは『ダブル・ダブル』においても変わらない。本作でエラリーは、最終的に童謡殺人の連鎖を食い止める事に失敗している。というより、エラリー自身が童謡殺人の進展に大きく寄与しているのだ。これら符合は恐らく偶然ではない。

2016-01-09 13:24:42
@quantumspin

注目すべき事は、これら作品では、連鎖する事件の背後に、いずれも別の存在がある事だ。巽はこれを〝主体を欠く言葉の自動運動〟と表現するが、詳しく見ていくと、各作品の背後にあるものを、〝言葉〟とひと括りにすべきではない。例えば『十日間の不思議』の一連の事件の背後には神が配置されている。

2016-01-10 08:03:44
@quantumspin

これが『九尾の猫』になると、連続事件の背後に配置されるのは〝人〟になる。本作ではさらに、連続殺人が引き起こす群衆暴動までも描かれるが、こうした人間がトリガとなり連鎖する犯罪は、本作の根幹をなす。そして『ダブル・ダブル』に至ると、〝自然の摂理〟とでも言うべきものが背後に配置される。

2016-01-10 08:11:55
@quantumspin

『十日間の不思議』から『ダブル・ダブル』に至る事で、作者クイーンは、連続事件の背後に配置されるものを、〝神〟〝人間〟〝自然の摂理〟とずらしながら、執拗に反復しているのである。各作品が、一方では類似性を保ちながら、他方、異なる印象を受ける根底には、こうした差異があると言えるだろう。

2016-01-10 08:18:55
@quantumspin

そして、探偵エラリーは、連続事件の渦中に飛び込み、これら存在に駆動される連続事件の最中に対峙する。探偵は連続事件の最中に、『大きな構図、事件の全体を支配するような言葉の体系の発見』を行う。巽はこれを、探偵エラリーの弱点であり、構図に誘惑されやすい読者の要請と分析するのであった。

2016-01-10 08:34:15
@quantumspin

しかしながら、連続する事件の背後に大きな構図、事件の全体を支配するような言葉の体系を探索する行為は間違いではなく、事件は眼前で進行しているのであるから、不完全なデータに基づき、パターンを発見し、そのパターンが予想する帰結を推定し、帰結を操作しようとする行為も、極めて自然なものだ。

2016-01-10 08:52:47
@quantumspin

連続事件の背後にあるパターンを推理するような場合、国名シリーズのように、事件が完了してから推理を行う、スタティックなゲーム空間は構成されない。探偵は、有限で不完全なデータからの推論を要求されるが、この時の推論には可謬性があり、続けて起こる事件によって反証される可能性は無くならない

2016-01-10 09:04:23
@quantumspin

しかし、だからといって、眼前で連続事件は起こっているのであり、その犯罪行為の完結を見届けることは許されない。手掛かりに完全性を求めるなら、犯罪の完結を待たねばならず、犯罪を完結させない為には手掛かりは不完全でなければならない。一連の作品で探偵エラリーが苦悩する理由はここにある。

2016-01-10 09:12:30
@quantumspin

一連の作品における探偵エラリーの行為、すなわち、連続する事件の時間発展を仮説演繹的に予測し、事件の帰結を目標状態に近づけようとする行為は、一般に現代制御論のプロセスとよく対応している。現代制御論では、制御対象の時間発展を数学モデルを用い予測し、出力を目標状態に漸近する操作を与える

2016-01-10 18:02:27
@quantumspin

そして、探偵エラリーが事件の帰結の操作を試み、悉く失敗する様を繰り返し描く事で、作者クイーンは自動機械に対する懐疑を示唆しようしていたと考える事はできないだろうか。というのも、『十日間の不思議』が出版された1948年は、Wienerが『サイバネティクス』を出版した年でもあるのだ。

2016-01-10 18:29:23
@quantumspin

〝オートメーション〟という言葉が使われ出し、情報理論が確立するのもこの頃である。また1946年まで遡ると、世界初の電子式汎用コンピュータとされるENIACが出現している。オペレーションズ・リサーチは既に第二次大戦を通じ発達している。こうした時代の雰囲気を、作者が感じない筈がない。

2016-01-10 18:42:56
@quantumspin

1948年、ドミニコ教団の修道僧デュパール神父は、『サイバネティクス』について穿った評論を、パリの雑誌「ル・モンド」に発表する。この一節を引用しよう。『統治機械では、国家は各段階において最大の情報をもつ競技者として定義され、国家はすべての部分的な決定の唯一の最高の調整器である』

2016-01-10 18:57:09
@quantumspin

『これは巨大な特権であり、もしそれが科学的に得られるなら、国家は、あらゆる条件の下で、人間ゲームに参加する自己以外のどんな競技者をも打ち負かすことができる。そのさい国家は他の競技者たちに次の二つの道のいずれか一方を選ぶべきことを示す。すなわち即座の破滅か計画された強力かである』

2016-01-10 19:00:36
@quantumspin

『これは外部からの暴力なしにゲーム自身が生み出す帰結である(…)。我々は今や偉大な「世界国家」の危険を冒しつつある。そこでは、よく考えた上で意識的に選んだ原始的な不公平が大衆の統計的幸福の唯一の可能な条件であるかもしれない。それは頭脳明晰な人達にとっては地獄よりひどい世界である』

2016-01-10 19:07:31