『父』と『子』と『精霊』と後期クイーン的問題

〝十日間の不思議〟〝九尾の猫〟〝ダブル・ダブル〟の考察
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@quantumspin

デュパール神父の批評に対し、Wienerは『人間機械論』で次の反論を行っている。『デュパール神父の統治機械が恐ろしいのは、それが人類を自動的に管理する危険があるためではない。そのような機械は、あまりにも大まかで不完全であり、人間の目的的で自主的な行動の千分の一さえ発揮できない。』

2016-01-11 08:03:34
@quantumspin

『現実に危険なのは、それとはちがって、そのような機械が、それ自体では無力だが、(…)政治の指導者たちが大衆を、機械そのものによって管理するのではなく、あたかも機械によって算出されたかのような狭くて人間の可能性を無視した政治的技術によって管理しようとすることである。』

2016-01-11 08:08:52
@quantumspin

『機械の重大な弱点は、人間の状況を特徴づける確率が莫大な範囲に渡っている事を機械はまだ考慮に入れる事ができない点にある。機械が支配しうる社会はエントロピー増大の最終段階にあるような社会であり、そこでは個人の間の統計的差異は無視し得る。幸いにも我々はまだそんな状況には達していない』

2016-01-11 08:43:48
@quantumspin

40才を越えた作者クイーンが『十日間の不思議』を出版した頃は、統治機械によるディストピアが、現実に起こるかもしれない将来像として、議論され始める頃と重なっている。探偵の苦悩を執拗に描く理由は、こうした時代性を、作者クイーンがいかに受容したのかという問いと関係してはいないだろうか。

2016-01-11 09:07:07
@quantumspin

『十日間の不思議』から『九尾の猫』を通過し『ダブル・ダブル』に到達する事で、探偵エラリーは、事件の背後にある〝神〟〝人〟〝自然の摂理〟と対峙する。まさに、〝神〟と〝子〟と〝精霊〟の三位一体を、一連の事件を通じ探偵エラリーは経験していくのだ。これらの前に、探偵は実に無力な存在となる

2016-01-11 10:04:35
@quantumspin

かつて国名シリーズの頃のエラリーが、〝人間ゲームに参加する自己以外のどんな競技者をも打ち負かすことができる〟統治機械のごとく振舞っていた事を思い出そう。物的証拠に基づく挑戦形式を完成させたクイーンは、『シャム双子の謎』以降の作品で、人間の意図の機械的取扱いを試み不可能性を暴露する

2016-01-11 10:44:39
@quantumspin

〝あたかも機械によって算出されたかのような狭くて人間の可能性を無視した政治的技術によって管理しようとする〟探偵の振舞いの背後にある欺瞞を、『シャム双子の謎』以降の実作を通じ明らかにしたクイーンは、『十日間の不思議』以降で、作中の統治機械としての探偵を、神の前にひれ伏させるのである

2016-01-11 12:26:11
@quantumspin

「操りと後期クイーン的問題」をトゥギャりました。 togetter.com/li/978690

2016-05-23 20:53:44