「想像された共同体」と「想像上の共同体」ーーShotaro Tsuda氏によるベネディクト・アンダーソン追悼

「インドネシア・ナショナリズム」の歴史的な意味など、いま改めて考えてみる上でも興味深く感じられたため、備忘としてまとめました。
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Shotaro TSUDA @brighthelmer

昼間に書いたとおり、ベネディクト・アンダーソンが亡くなったということで、日本における「想像の共同体」論の受容のされ方について思うところを。

2015-12-13 22:40:31
Shotaro TSUDA @brighthelmer

まず、これは時々指摘される点なのだけれども、アンダーソンはナショナリズムを否定していたわけではないということ。例えば、アンダーソンが人種主義とナショナリズムとを対比させて、前者が差別と憎悪に基づくものなのに対し、後者は愛と平等を基盤とすると論じていることなどにもうかがえる。

2015-12-13 22:41:40
Shotaro TSUDA @brighthelmer

アンダーソンの議論がナショナリズム批判の文脈で受容されたのは、1990年代におけるネオマルクス主義的な国民国家論の隆盛が大きかったのではないかと思う。アルチュセール的な既存秩序への服従を促すイデオロギーとしてナショナリズムを位置づける流れと合流してしまった。

2015-12-13 22:42:42
Shotaro TSUDA @brighthelmer

アンダーソンがナショナリズムをイデオロギーと見なすことを強く批判していたことを踏まえると、これはかなり皮肉な展開とも言える。

2015-12-13 22:43:43
Shotaro TSUDA @brighthelmer

いずれにせよ、ナショナリズム批判の文脈で受容されたことが、アンダーソンが国民(ネーション)もしくは国民国家を「虚構」や「フィクション」として論じたという解釈が生まれたのではないかと思う。けれども、この解釈は正しくないとぼくは考える。

2015-12-13 22:44:58
Shotaro TSUDA @brighthelmer

そもそも、imagined communitiesは「想像の共同体」と訳されているわけだけれども、「想像」と「共同体」が「の」で繋がれたことに誤解が生じる一つの原因があったのではないだろうか。日本語としては不自然でも「想像された」と訳すべきだったかもしれない。

2015-12-13 22:45:52
Shotaro TSUDA @brighthelmer

というのも、「想像の」という訳だと、それが「虚構」とか「フィクション」という解釈を生みやすいからだ。ところが、アンダーソンは『言葉と権力』という著作のなかで、ネーションは想像された共同体であっても、想像上の(imaginary)の共同体ではないとはっきり述べている(p.136)。

2015-12-13 22:47:19
Shotaro TSUDA @brighthelmer

ぼくなりに解釈すると、お互いに見ず知らずのネーションの構成員を結びつけるのは「水平的な深い同士愛」という想像力であったとしても、そうした想像力によって生み出された共同体は決して虚構やフィクションではなく、実体として存在するということではないかと思う。

2015-12-13 22:48:27
Shotaro TSUDA @brighthelmer

しかも、アンダーソンは統治機構としての国家とネーションを明確に区別しているから、国民国家が虚構とかフィクションというのはアンダーソンの主張からはかなり遠いところにあるのではないだろうか。

2015-12-13 22:49:03
Shotaro TSUDA @brighthelmer

そういう意味では、アンダーソンのナショナリズム論は「国民国家の虚構性」を指摘するだけの議論よりはずっと長い射程を持っているのではないかと思うし、もう少し踏み込んだ評価が必要なのではないかと思う。(終わり)

2015-12-13 22:49:57