ドゥルーズの解釈よるフーコー権力論 と質疑応答 by國分功一郎さん
- bungakuron
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けれど、ドゥルーズはむしろ、そう言うことで、マルクス主義者フーコーをマルクス主義から引きずり出そうとしたと考えられる。
2011-01-19 09:06:56さらには、ドゥルーズ自身は、そのような権力論をまったく信じていないことにも注意しなければならない。あれは、あくまでも、フーコーを論じるために言っていたこと。
2011-01-19 09:07:55ドゥルーズはフーコーに宛てた手紙「欲望と快楽」のなかで、「社会のミクロ装置は、権力という用語では描けない」と断言し、権力論という企てそのものに疑問を付す。
2011-01-19 09:09:15lethal_notionこと國分功一郎氏の一連のドゥルーズ・フーコーの『監獄の誕生』に対するツイートが腑に落ちなかったので解釈してみる。
2011-01-19 22:42:40lethal_notion「でも、ここで俺としては突っ込みたい。フーコーの権力論で一番有名なのは『監獄の誕生』だけど、あの本には、「慎ましやかな人たち」によってこそ権力は欲望され、排除が駆動されるという視点はあるだろうか?」
2011-01-19 22:45:35第二に、自分自身へ折り込まれたかたちのこの非行性を、違法行為のなかでも最も危険の少ない形式へ向けることが可能である。つまり非行(=前科)者たちは、規制の圧力ゆえに社会の辺境に固定され、自分を支持したかもしれない人々とのつながりをもたずに不安定な生活条件においやられる。
2011-01-19 22:54:43『監獄の誕生』から引用してきたが、ようするに潜在的な違法行為者=非行者を支持者になりうる民衆から離して、政治的に経済的に危険のない犯罪しか出来ないようにしようと言っている。
2011-01-19 23:11:49「で、ドゥルーズがなぜこれに注目するかというと、この封印状は権力者が上から民衆を抑圧する為に使うんじゃなくて、「慎ましやかな人々」、それこそ民衆が、取るに足りない厄介者を厄介払いするために、権力に、お上に、お願いして発行してもらうものだからです。」(國分功一郎氏)
2011-01-19 23:16:01と言っているのだけれどフーコーが問題にしているのは非行者が孤立化し、権力と結びつくかである。ここで取り上げている権力のシステム(規律型権力)は「慎ましやかな人たち」によってこそ権力は欲望され、排除が駆動されようが、されまいがそもそも関係がない。
2011-01-19 23:27:14僕としては何故、『監獄の誕生』に対して「慎ましやかな人たち」によってこそ権力は欲望され、排除が駆動されるという視点はあるのだろうかと突っ込む必要があるのかと逆に突っ込みたい。
2011-01-19 23:31:24んで「『監獄の誕生』は、どこか、権力は上からくるという印象を読者に与えるところがある。「フーコーによれば権力は下からくる」というもはや呪文のようになった決まり文句には実はさほど根拠はない。入門書程度の知識しかなくて、フーコーの本を熟読してないひとが言ってるだけ。」(國分功一郎氏)
2011-01-19 23:34:06「支配の問題を脱色するような権力論というのは、ドゥルーズによって解釈されたフーコー。下からくる、中心はない、本質もない…これらは全部ドゥルーズが言ったこと。」(國分功一郎氏)
2011-01-19 23:36:04どうしても推測になるが、國分功一郎氏は『監獄の誕生』おけるフーコーによれば権力は下からくるという意味をドゥルーズの管理型権力(規律権力と比較して)の下からくる、中心はないという意味で捉えている気がする。 5秒以内前 webから
2011-01-19 23:41:53『監獄の誕生』における権力の上下ってのは国王の身体と権力の関係、非行者の身体と権力の関係を比較して下降運動的か、上昇運動的かという意味だった気がした。
2011-01-19 23:45:33だから『監獄の誕生』の権力関係の上下運動をドゥルーズの管理型権力-規律権力の形式に落とし込もうとしているのか分からない。
2011-01-19 23:50:33あ また「むしろフーコーは支配と被支配という図式を頑なに信じていて、そちらの方が問題じゃないか。」と國分功一郎氏は指摘するが、個人的な意見を言わせて頂けるのであれば、それは逆であると思う。支配と被支配という図式を宙吊りし続けたことこそ、フーコーの偉大な点であると。
2011-01-19 23:54:47ドゥルーズはフーコーに宛てた手紙「欲望と快楽」のなかで、「社会のミクロ装置は、権力という用語では描けない」と断言し、権力論という企てそのものに疑問を付すとし、國分功一郎氏は権力は、欲望の変状に過ぎないと断言する。
2011-01-19 23:55:49本当に権力は欲望の変状に過ぎないのだろうか。欲望は欲望できないと僕は思う。互いが主体を介在しない欲望によって干渉すること、それにより互いの主体性が介入しえないという前提にすることで支配‐非支配から脱したと感じること。
2011-01-19 23:58:55互いが支配‐非支配の関係にある状況を覆す為に、権力の行使の場から認識主体を排斥したこと。それにより、権力のゲームに個人の欲望がノードとして組みこまれることを前提にしつつも、主体が自身にて権力のゲームに参入を拒否すること。
2011-01-20 00:02:59互いが支配‐非支配の関係にある状況を覆す為に、権力の行使の場から認識主体を排斥したこと。それは欲望を抵抗することという前提の下で発揮される。支配‐非支配の関係を安易に否定することこそ、互いに憐れむしか出来ない状況を生み出すと思う。
2011-01-20 00:05:27@MichelDeFuko 興味深く読ませて頂きました。「何故、『監獄の誕生』に対して「慎ましやかな人たち」によってこそ権力は欲望され、排除が駆動されるという視点はあるのだろうかと突っ込む必要があるのかと逆に突っ込みたい」まさに同意です。また感想書きます。
2011-01-20 01:57:05