歴史談義

日本史関連のTL集。
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Yohei.S,MPM @MPMYS14

武蔵の吉良家なら、当主を「おやかたさま」、正室を「おんたいほう」、嫡男を「うえさま」と称しましたが、斯波家は家中一貫して武衛様だったろうか。格式は屋形号だからお屋形様が普通だけれども。ちなみに、奥州探題 大崎、羽州探題 最上など斯波一門はお屋形様。

2011-01-10 01:31:09
Yohei.S,MPM @MPMYS14

ちなみに「幕府」という呼称を頼朝や御家人が用いた形跡があるかといえば、右近衛大将となり、そう敬称されたというのが該当しよう。当時の人も「幕府」という語は用いた。もっといえば幕府とは古代中国の概念。しかし、「鎌倉幕府」は明治20年頃につくられた概念。

2011-01-10 00:31:08
Yohei.S,MPM @MPMYS14

鎌倉幕府=段階的成立が正しいと思う。はじめは事実上の私設政権いや徒党に過ぎなかった。しかし、院や朝廷の院宣、綸旨を受けて、諸国国衙を指導し年貢を納める権や軍事・警察権を得ていった。やがて右近衛大将となり、家政機関 政所の開設が法的に認められた。そして征夷大将軍という非常大権を得た

2011-01-10 00:27:23
Yohei.S,MPM @MPMYS14

@makimurahirosi 確かに斯波家は当主、嫡男を武衛、若武衛といいますね。ただ、織田家中的に、官位を以て敬称としたのでしょうか。「殿」ならまだわかるのですが。

2011-01-10 01:27:25
Yohei.S,MPM @MPMYS14

六覇羅幕府というのなら、六覇羅政庁だろうな。三位以上の殿上人は摂家、清華を問わず政所を置く。太政大臣以下、高位高官を欲しいままにした六覇羅もまた、同じこと。京都育ちの頼朝はどの段階でその理屈を学んだのか。やはり大江広元ら京下りの能吏を得たあたりだろうか。

2011-01-10 00:24:01
Yohei.S,MPM @MPMYS14

織田信長やその父 信秀を描くとき、お屋形様と呼ぶが、時代考証的にどうなのだろう。。確かに信長は尾張守護は受けている。屋形号があっても不思議はない。でも信秀は守護の下の守護代のそのまたの下の三奉行に過ぎない。守護 斯波義統を呼ぶならわかるけど。

2011-01-10 01:15:48
Yohei.S,MPM @MPMYS14

都も城北、城東地区から御城までが関東管領 上杉方の勢力圏なのに対して、世田谷や調布あたりは、足利将軍家の一門随一 世田谷御所(蒔田御所)吉良家の領地。高貴さ故に戦場に出ない武将といわれた吉良氏当主だが、世田谷から調布の情緒は多少、上杉圏とは趣が違うようにも感じる。

2011-01-03 00:59:57
Yohei.S,MPM @MPMYS14

都内・都近辺もいろいろ歩くと面白い。北さいたま市の岩槻区から荒川区、豊島区、練馬区、千代田区、他、南は神奈川の伊勢原まで、関東管領・武蔵守護 上杉の家宰・武蔵守護代 太田道灌の領内。陪臣にしては領地多すぎだろうと。管領 上杉定正から暗殺されたのも無理ないのではとつい・・・

2011-01-03 00:56:34
Yohei.S,MPM @MPMYS14

都道府県別性格判別のようなものは誇張やステレオタイプの感が強いが、ある程度あると思う。茨城は水戸の三ぽい、怒りっぽい、理屈っぽい、飽きっぽい。ただハングリー精神はあって、頼朝公に対抗した佐竹昌義公、後醍醐天皇に叛旗した尊氏に従った佐竹貞義公、家康公と対峙した佐竹義宣公は象徴的存在

2010-12-29 13:10:28
Yohei.S,MPM @MPMYS14

通常の国司は、美濃守(みののかみ)、越前守(えちぜんのかみ)と、守が長官であるが、親王任国は、織田上総介(信長)、吉良上野介、佐竹常陸介など介が、他の守と同格。ちなみに信長は親王任国の伝統を知らなかったのか、一時、上総守を自称したらしい史料が残っている。官職詐称もまかり通った時代

2010-12-29 13:06:23
Yohei.S,MPM @MPMYS14

茨城県の茨城とは、もとは、“うばらく”といった。現在の県域は常陸国と下総国の北部がくっついて現在の県になっているけれども、常陸国はもとは親王任国といい、親王宣下を受けた皇族が太守に任ぜられるため、次官の常陸介が実質国司の長官となった。

2010-12-29 12:59:06
Yohei.S,MPM @MPMYS14

しかしまぁ日本の歴史で、一番華やかなで雅な時代はいつかといえば、南北朝・室町時代だったと思う。織豊・江戸の元禄は新興勢力や町人文化の時代だったし、平安時代の再現的な要素もあったわけだし。源氏の嫡流 足利将軍家だからこそ、築き上げることのできた時代だったかもしれない。

2010-12-23 15:47:06
Yohei.S,MPM @MPMYS14

八代将軍義政公、決して無能ではないが山名三位入道や細川右京大夫らの権力闘争を抑えきれず。斯波・畠山らも後継争い。各地では今川、大内、赤松ら各地の大名が東西に分かれて争いを繰り返した。もとをたどれば室町幕府そのものが大名の力を借りてつくられたもの、時代とともに権勢か衰えるのは自明か

2010-12-23 15:44:26
Yohei.S,MPM @MPMYS14

今日は忠臣蔵の日か。実際、忠臣としての義挙だったかは一定の疑問符がついている。そもそも忠臣というのは浅野視点であり判官びいきの感もある。原因が不明とされているからだけど、吉良が完全で悪かったわけでないとの見方も。僕は吉良と実子の米沢侯への同情を禁じ得ない。

2010-12-14 12:19:49
Yohei.S,MPM @MPMYS14

まぁ、本家 広島藩42万石 松平(浅野)安芸守への配慮はあったにせよ、外様の浅野家との喧嘩両成敗としては公平といえば公平か。逆に5万石の浅野内匠頭を即日切腹で、座敷ではなく田村右京大夫屋敷の庭先でというのは手落ちだった。

2010-12-06 22:50:07
Yohei.S,MPM @MPMYS14

吉良上野介、300年ぶりに帰宅。吉良は三河の領内では名君。両国でも大事にされとる。そもそも吉良氏は足利将軍家の御一門では随一の名門であり、徳川家康の源氏改姓に一役買った。同族の東条氏に吉良氏相続が許されたとはいえ、幕府の吉良氏処断はやはり厳しかったと思う。

2010-12-06 22:45:06
Yohei.S,MPM @MPMYS14

日本史上で一番人間臭い時代は実は戦国よりも、南北朝時代なのではないか。皇室の権威も強いが、それを鼻にもかけない婆沙良たち。源平以来の武家と悪党、それに足利尊氏の秘めた後醍醐天皇への尊敬。南朝方武将にもある打算。戦前の足利尊氏逆賊論が如何に陳腐か。北方文学見てると痛感する。

2010-12-02 12:13:33
Yohei.S,MPM @MPMYS14

『武王の門』で面白いのは、南朝方の主敵 足利尊氏が直接登場せず、間接的に登場人物にその魅力と求心力を語らせること。これは単純なように見えてスゴイ手の込んだ演出だ。読者の尊氏像を読者の想像力に託す。絶妙。司馬文学とは違った意味でスケールがある。

2010-12-02 12:17:44
Yohei.S,MPM @MPMYS14

そして、後白河法皇崩御により、征夷大将軍。これは行政官の職階を定めた養老律令とは別に、軍防令に定める非常大権の行使も可能な令外官。天皇に代わり天下の兵権を行使し、政治も行える非常大権を有した。頼朝はすぐに退任したけど結果的に世襲され、非常大権の常態化招いた。

2011-01-21 23:35:46
Yohei.S,MPM @MPMYS14

清和天皇の皇胤としての尊氏、武家の棟梁としての尊氏。双方の面を持つ宿命。御所に弓ひくことはつらかっただろう。しかし、吉良や今川、斯波、細川といった足利一門の武将たちがまさに主上の軍、それも同血の新田軍6万により、次々に討たれていく。武家棟梁もまた心中複雑なものがあったのだな。

2010-12-02 12:24:50
Yohei.S,MPM @MPMYS14

@takanonakat 鎌倉時代は源平藤橘といった古代の氏から、北条、三浦、和田、梶原など武家の名字、公家の近衛、鷹司...三条、西園寺、冷泉、姉小路など称号に家名がとってかわる時代でした。本格的に家格が固定化したのもこの時代からといっていいでしょう。

2011-02-06 18:52:30
Yohei.S,MPM @MPMYS14

@takanonakat そうですね。五摂家は藤原摂関家が五流に別れ、大臣大将に昇る清華家は藤原氏の有力一門 閑院流、村上源氏がメイン。納言を勤め、最後、准大臣や大臣となる大臣家はその門流。その下は羽林家、名家、半家....という具合。

2011-02-06 18:48:01
Yohei.S,MPM @MPMYS14

@takanonakat 左大臣藤原時平が罠にはめようとした菅原道真はその例で、彼は学者らしくその位階に応じた所作をこなしてしまい、かつ、親王の岳父にまでなってしまう。それが仇でしたね。婿の親王を即位させ、帝の岳父とならんと謀叛を企んでいると冤罪を着せられ…。

2011-02-06 18:43:00
Yohei.S,MPM @MPMYS14

岡野友彦著『源氏と日本国王』(講談社現代新書、2003年)は中々面白い。著者独特の文章表現もあり、正確さについて議論もあろうが、源氏長者+征夷大将軍を占めた武家の棟梁が、日本国王として君臨してきたというユニークな論。源氏や平氏という古代の氏姓と名字の基礎を学ぶ上でも良著。

2011-02-12 20:48:32
Yohei.S,MPM @MPMYS14

@takanonakat 古代、氏族社会であった日本は血筋による階級制度があったわけですが、聖徳太子の冠位十二階は個人の能力に応じて官位を与えようというものでした。しかし、実態は氏族の古習に戻り、本格的な律令制を導入すると、家柄により昇進が制限される極位極官というものが(補足)。

2011-02-06 18:40:24