武家の最高権威は「征夷大将軍」ではない?~権力者の複数称号や役の兼任について
- gryphonjapan
- 36257
- 148
- 25
- 110
<征夷大将軍>本来は蝦夷を征討するための役職で、天皇によって任じられる。単に「将軍」とも呼ばれる。鎌倉時代以降は武家政権の最高職を指す。蝦夷は北方の対立勢力で、幾度の討伐を経ても滅びず、鎌倉時代以降徐々に同化していった。 pic.twitter.com/gxTpZqILnz
2017-11-10 16:05:34『幕府』とはそもそも近衛大将の唐名である、という観点から見れば、例えば鎌倉幕府の成立は頼朝が右近衛大将に成った1190年となるわけですし、室町時代でも、征夷大将軍より右近衛大将の官位のほうが重視されていたとも言われ、じゃあ「征夷大将軍」って何なんだという事になり話がこんがらがる
2018-06-05 23:42:25@1059kanri そういえば本当に蝦夷征伐に行っていた頃の征夷大将軍は天皇から「斧鉞」賜っていたはずですけど、頼朝以後はどうだったんでしょうね?
2018-06-05 23:49:52武家の棟梁は「征夷大将軍」だと言いますが、どうも実際には征夷大将軍だけでは充分ではなく、足利義満以降になると「武家政権の長3点セット」として、征夷大将軍、右近衛大将、源氏長者、を包括することが理想とされたようで、実はそのうち征夷大将軍が、いちばんハードルの低い官位なんですね
2018-06-05 23:57:47@1059kanri そう言えば、家康も源氏長者とする手続きを、朝廷で行ったとか言う話をヒストリアか何かで見た記憶があります。
2018-06-06 00:01:47@isami_ichifuji 室町将軍はこの3点セットすべてを必ずしも任官出来なかったわけですが、徳川将軍はもう最初からセット任官なんですねw
2018-06-06 00:04:47@1059kanri まるで新日本プロレスの三冠ヘビー級王者みたいな感じですね。三冠と称しながら、統一されてしまったせいで、1度に3つのタイトルが取れてしまうと言う感覚で。
2018-06-06 00:10:09@PSYCHOPATHMASA どうも室町期、将軍家と摂関家は同格という考え方があり、また室町将軍も準摂関家として「天皇の執事」の役割を以て任じていたフシがあり、関白就任のチャンスが有った秀吉が「それなら将軍じゃなく関白でいいじゃないか」というある意味雑な発想から出たものではないかともw
2018-06-06 00:12:53@1059kanri @nonomaru116 そもそも、源氏三代の将軍任命は「除目」で行われ、後に知られる「宣下」の形式が確立したのは宮将軍の時代と言われているので、頼朝の時の武家故実がそのまま後世に伝わっているとは思えないのですが(小声)。
2018-06-06 00:13:07@1059kanri @PSYCHOPATHMASA 秀吉は征夷大将軍任官の絶対条件としての源氏となるため足利義秋の養子になれるよう交渉をしてたって話をどっかで聞きましたぜ。結局うまくいかなかったので公家の藤原某と縁組をして関白になったとかなんとか。
2018-06-06 00:24:11@chiraura_work @1059kanri 自分が読んだ本だと秀吉はどうもはじめから関白狙いだった可能性が高いと書いてあったけど、結局今はどっちが有力なんでしょう?
2018-06-06 00:26:25@1059kanri 徳川秀忠なんかは、源氏の長者にはなれませんでしたが、右大将には任官されてましたね かつて田中角栄が、党三役で幹事長ふくんで政調会長か総務会長を歴任し、内閣でも外務、大蔵、通産いずれか2職を歴任してこそ総理の器的な事をいっていたみたいなので、いつの時代もかわりありませんね
2018-06-06 01:06:29@1059kanri そういえばなんで「右」なんでしょう?武士の官位が員外の官になってる江戸時代ならどちらでもいい気がする、というか武士はなんとなく「左」を好むイメージがあったので気になりますね。
2018-06-06 02:41:21@1059kanri 秀吉は源氏長者を手に入れられなかった(義昭が手放さなかった)ので征夷大将軍を諦めて関白狙いにシフトしたとか、怪しげな歴史雑誌で読んだ記憶があります
2018-06-06 03:14:30@shuzennokami 端的に言えば源頼朝が「右近衛大将」に任官したためですね。実は「左近衛大将」の方が格的には上であり、鎌倉3代将軍源実朝も左大将の方を望んだりしていますが、結局頼朝依頼の故実、という事になりました。中世も「いきなり一番格上の位」には任官しづらいのです、世間の目を気にして
2018-06-06 08:21:04