12月29日 三笠の昔話

海軍中将松山茂提督没(1937) 海軍大将末次信正提督没(1944) #三笠の昔話
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戦艦だった三笠 @senkan_mikasa

さて、今日は。 海軍大将末次信正提督没(1944) 海軍中将松山茂提督没(1937) 今日は、「中攻隊の父」松山中将について。 #三笠の昔話

2014-12-29 21:29:58
戦艦だった三笠 @senkan_mikasa

松山提督はもともと水雷屋。軍縮で水上戦力が制限された後、かねてからの腹案だった航空戦力の拡充を図り、九六陸攻、九六艦戦の開発・採用を推進。 長い航続距離をもつ中攻により日中戦争および太平洋戦争初期の快進撃が支えられていたのはご存知のとおり。 #三笠の昔話

2014-12-29 21:50:30
戦艦だった三笠 @senkan_mikasa

海軍航空本部長時代の部下には山本五十六提督、山縣正郷提督(後に海軍大将)など。 海軍通信学校設立、気象観測所の設置、パイロット育成のための航空予備士官制度制定など業績数多なのですが、病を得て56歳で没。 #三笠の昔話

2014-12-29 21:58:08
戦艦だった三笠 @senkan_mikasa

特に中攻と航空雷撃との組み合わせは沿岸迎撃の究極形態であり、中攻隊がマレー沖海戦で英戦艦2隻をあっけなく葬ったのは皆様もご存知のとおりです。 もっとも、松山本部長はもうおなくなりになった後でしたが… #三笠の昔話

2014-12-29 22:04:37
戦艦だった三笠 @senkan_mikasa

今日は、海軍大将末次信正提督の命日(1944)です。 条約派三羽烏が米内・山本・井上なら艦隊派三羽烏は中村・高橋・末次、とまで言われた極度のタカ派ながら、飛び抜けて優れた指揮統率力で人気の高かった提督。 #三笠の昔話

2015-12-29 21:02:33
戦艦だった三笠 @senkan_mikasa

海兵こそパッとしない成績だったものの、海大で頭角を現し首席卒業。当時流行りだった弩級戦艦の亀甲型主砲配置を覆す「中心線配置」をいち早く発案するなど、独創性に富む人でした。 軍縮には反対でしたが、締結後は対米艦隊戦略の立案に奔走。 #三笠の昔話

2015-12-29 21:13:58
戦艦だった三笠 @senkan_mikasa

その中で生まれたのが「艦隊型潜水艦」。長大な航続力と強力な雷装を特長とする伊号潜水艦たちの産みの親とも言えるのです。 潜水艦開発では自ら潜水艦隊司令となって現場にはりつくなど、日本海軍軍人らしい「率先垂範」を地で行くタイプゆえ、現場の人気はとても高かったようです。 #三笠の昔話

2015-12-29 21:18:42
戦艦だった三笠 @senkan_mikasa

ところがロンドン軍縮以降、行動が過激化。海軍の大物や政府高官に何度となく戒告や訓示を受けるも態度は改まらず、機密費を流用しての暗躍などが噂されるまでに。 温和で知られる米内提督(二期後輩)が見かねて末次提督の胸ぐらを締め上げなじったという逸話が残っています。 #三笠の昔話

2015-12-29 21:24:17
戦艦だった三笠 @senkan_mikasa

その後いったん現場に戻り連合艦隊司令長官に就任。現場では絶大な人気を誇り、その人気は東郷元帥に次ぐものだったとも。一方、過激なまでの厳しい訓練、特に夜戦訓練の激しさは、美保関事件後ながら想像を絶するものだったそう。 夜戦狂の産みの親……かも。 #三笠の昔話

2015-12-29 21:30:48
戦艦だった三笠 @senkan_mikasa

その後政界入りし一時は首相就任の噂までたったものの、米内内閣成立とともに下野。終戦工作の中、米内提督復帰のため再度軍令部入りを打診され、因縁の深い米内提督との和解までしましたが、急病に倒れこの日没。 現場を離れて久しいながら、戦局は的確に把握していたそう。 #三笠の昔話

2015-12-29 21:42:33
戦艦だった三笠 @senkan_mikasa

余談。 末次提督は第一次世界大戦で観戦武官として渡英。巡洋戦艦クイーン・メリーちゃんに乗り組みましたが、ユトランド沖海戦直前に帰朝の辞令をうけ退艦。クイーン・メリーちゃんはユトランド沖で一発轟沈しており、別の観戦武官(下村少佐)が戦死。なんたる運の廻り合わせか… #三笠の昔話

2015-12-29 21:47:31
戦艦だった三笠 @senkan_mikasa

余談2。ご長男も海軍入りし、1945年4月7日時点で第二艦隊水雷参謀。…そう、彼は坊之岬沖に眠っています。 大艦隊を夢見た末次提督にとって、大和ちゃんとご長男の最期を知らずに逝かれたのはせめてもの救いだったのかも知れません。 #三笠の昔話

2015-12-29 21:54:23