@ simasyodesさんによる「別の“勝ち組負け組事件”」記事の紹介(太平洋戦争時の在外民間人についての一例)
先日、BS1でブラジルの「勝ち組負け組事件(臣道連盟事件)」のドキュメンタリーを再放送したそうだが最近「似た事件」を目にしたので今日はそれについて話す。
2016-01-09 15:33:08臣道連盟(しんどうれんめい)とは、ブラジル在住の日本人移民間で、太平洋戦争での日本敗戦を信じない者(「勝ち組」)の間に形成された国粋団体。正しくは臣道聯盟と書く。
1946年12月3日GHQ経由で日本政府にある報告書が送られた。在ムンバイ(現ボンベイ)駐在のスウェーデン総領事ハレンボルグからのもので1946年3月30日に日本人が抑留されているインドデオリの収容所を訪れた時のものだ。(スウェーデンは第二次大戦中中立国で日本の利益代表国)
2016-01-09 15:33:36戦前から東南アジアに進出していた日本人企業等や現地で生活していた者が太平洋戦争で国交が断絶し、ここではシンガポールでイギリスの捕虜となりインドに送られた日本人達がいた。(収容所については後述)
2016-01-09 15:34:161945年8月15日日本敗戦 収容所内でも英字新聞等で日本敗戦を知った者がいたが「神の国日本が負けるわけない」と「勝ち組派」が存在した。ハレンボルグの報告書にも1945年末になっても「勝ち組派」がかなりいたことを伝えている。
2016-01-09 15:34:34日本敗戦は抑留者の大部分には受け入れず、デオリ収容所は前ビルマ大使沢田簾三、磯田三郎陸軍中将を呼んで終戦の詔勅(玉音放送の文面)を朗読させたが逆に「軍人は偽物だ」と緊張状態は収まらない。
2016-01-09 15:35:04収容所内は勝ち組派による負け組派への襲撃事件が発生(16人負傷)1946年2月26日収容所所長クレスター英軍中佐はインド軍へ部隊派遣を要請、警察署長は騒乱条例を読み上げて騒ぎを抑えようするが抑留者達は暴徒化した。
2016-01-09 15:36:31インド軍の発砲で19人の死者(男性13女性5幼児1)が出た。沖縄県出身者も大城伊太郎(読谷)名嘉重郎(伊平屋)が亡くなり、伊礼久雄は収容所で生まれたまだ14ヶ月の赤ん坊だった。
2016-01-09 15:37:01当時小学生だった上原忠夫さんは暴動に遭遇「勝ち組派が負け組派を夜討ちする計画」を耳にし、暴徒化した抑留者にインド兵が発砲して逃げる際に自身も負傷したという
2016-01-09 15:37:271946年3月6日ハレンボルグ・ムンバイ駐在スウェーデン総領事が仲裁に入り、抑留者の代表者達と面談し、「日本敗戦」の事実を伝え事態は沈静化する。
2016-01-09 15:37:45この事件は戦後長らく公にされず外務省が文書公開したのは終戦後30年余り経った1976年5月だった。シンガポール日報の記者でインド抑留を経験した木村二郎さん(故人)が帰国後に約3千人を追跡調査し、現在も残っている「関東インドワラ会」の親睦は続いている。
2016-01-09 15:39:14収容所について触れておこう。戦前1917年頃からシンガポールに漁民関係者が進出(沖縄県人は糸満出身者が多かった 現在も漁師町で糸満は有名)水産会社として永福産業株式会社、金城公司、玉城組が会社を構えていた。
2016-01-09 15:39:531930年代大陸政策により日本の外交関係は悪化。在外日本人資産が凍結となり事業難に陥った企業等は引き揚げ始めた。1941年開戦直前に現地に残っていた日本人は企業の残務整理中の者やパスポートを会社に押さえられていた漁民関係者、また一般事業主だった。
2016-01-09 15:41:40そして遂に1941年12月8日開戦 マレー半島コタバルに日本軍が上陸(真珠湾よりこっちが早い) 日英は戦闘状態に入り、現地に残る日本人達の運命は決した。
2016-01-09 15:41:50帰国の術はなく一般漁民は操業中に拿捕されたり、港で軍や警察に拘束された。 埠頭倉庫等に連行された日本人達はマレー半島西部のポートスウェテンハム(現ポート・クラン)の簡易検疫所に集められた。
2016-01-09 15:42:04シンガポールで英軍や警察に捕らえられた者達は1942年1月21〜24日にインドへ渡りカルカッタやボンベイに上陸し、ニューデリーに送られプラナキラという城壁にある庭園に設けられた収容所に入った。
2016-01-09 15:43:07インドに抑留された日本人民間抑留者
関東学院大学経済学部総合学術論叢『自然・人間・社会』第25号、1998年7月
林 博史
この論文は、太平洋戦争の開戦時にマレー半島など東南アジアにいた日本人がイギリスによってインドに抑留された状況について、イギリスのPublic Record Officeと日本の外務省外交史料館に所蔵されている資料から、分析したものです。イギリスの関連資料については、共同通信から「インドに邦人抑留 大戦中の英外交文書発見」として配信され、1996年8月2日付で地方紙各紙で紹介されました。 2001.11.26
1942年7月14日の記録では2944人(後に捕虜交換等で帰国できた者720人)の日本人抑留者がいたことがわかる(沖縄出身者は457人)
2016-01-09 15:43:17食事は1日1人米481g野菜170g肉と魚85gの他に豆、砂糖、バレイショ、油、塩、茶、薪が与えられたが品質は悪かった。
2016-01-09 15:43:26さて帰国の検討だが外交官(とその家族)、商社マン、大企業関係者、経営者、教員が優先され漁民関係者や一般事業主は対象にするならなかった。
2016-01-09 15:44:301942年5月4日捕虜交換となり、第三国経由でポルトガル領ロレンソマルケス(現在のアフリカモザンビークの首都マプート)で帰国となった。選ばれたのは領事館関係64人プラナキラ抑留者720人であった。
2016-01-09 15:44:37