これは何かの冗談ですか? 小学校「道徳教育」の驚きの実態 bit.ly/1OKHsgm 典型的な「心情主義」の実践ですね。まあ、作っている人達に(道徳教育であっても)専門家がいないみたいなので致し方ないですが、問題設定が不適切という突っ込みはありでしょう。
2016-01-26 12:17:54この前の組体操道徳問題でも感じたのだが、法規範>道徳というのは、逆な気がするんですよねぇ・・・というか、法は各種道徳的な議論を基盤として作られるのでは無かったのか?という疑問・・・というか、そうしないと法の誤りを正す事が出来なくなるのではあるまいか?
2016-01-28 03:36:24RT鍵:法規範が道徳に基づいて作られる,というのはそういう面もあると思うのですが,技術者や研究者に対して「倫理観を特別に強く持て」っていうのは社会的な空気でいかようにも制裁可能になりかねないこともあり,しっかり明文化された法規範を作ってほしいと思うのです
2016-01-28 03:43:42法規範と道徳の話は原理レベルの話と運用レベルの話があって、少なくとも運用レベルで言えば、どちらが上位かという問題ではなくて、互いに別次元のもの…という判断に暫定的にはならざるを得ないのではないかと。
2016-01-28 03:47:33剽窃については従来は慣習法的な運用がなされてきたが、慣習踏まえない無法者が多くなったので明文化したということではないかな。いや、詳しくはないが。
2016-01-28 03:49:45運用面だと別次元というか相互補完的という感じで捉えますかねぇ・・・というか、道徳規範の内、特に強制力を強めたいものが法となるという感じの道徳‐法関係の理解の仕方をしているので、法と道徳は別と言われると違和感が多々・・・勿論、全面的に否定はしないのですけども・・・
2016-01-28 03:50:37そもそも法と道徳の峻別というのが近代法学の基本的了解であるので、両者が補完関係にあるという議論は道徳の議論ではあっても、法(について)の議論にはなりようがないだろう。
2016-01-28 03:57:49承知していますが、法哲学系(あと、若干の法社会学等)の議論を眺めていると、その峻別自体にどうも微妙な面があると感じているわけです。
2016-01-28 04:01:43いや、だからこそ《原理》と《運用》を区別しているのであって、原理的に両者の関係(その補完性も含めて)を掘り下げることはできるけれども、それは運用上の基準にはなりようがないという。
2016-01-28 04:04:14それはそうですね。まあ、運用面でも事実上道徳との補完関係が成立している事の方が多い気もしますが・・・そこは実態分析の話にしかならないしなぁ・・・と。
2016-01-28 04:07:20逆に言えば、Aという原則とBという原則があって、両者がマクロなレベルにおいて総体として補完し合っているということと、AやBの個別の運用においてはそれぞれ独自ルールが存在しているということは両立しうる。
2016-01-28 04:09:17RT鍵:倫理とか道徳って運用されるべきものではないと思うんですが,その割には「技術者倫理」とか「研究者倫理」ってのは後出し的に社会的非難の道具になるような気がするのですが
2016-01-28 04:11:26まあ、正味な話、「道徳」という言葉自体がバズワードである・・・価値観や倫理などと言った類似用語と意味が重なっちゃっていることも多いし・・・
2016-01-28 04:12:55この点は同意なのだが、だとすると問題は道徳/倫理の問題ではなく、明文化されてるか否かの問題なのかなと。たとえば、〇〇倫理を明文化して(法とは言わないまでも)ルールのように運用することは可能なわけで、そうなった時点でそれはもう道徳/倫理ではなくなっているのでは…という。
2016-01-28 04:14:34@kogemayo @oyaziMK2 「ペナルティと天秤にかけて「割に合う」なら法を破ることは是か非か」という議論を個々人が選択する道徳や規範の話と理解するならば、私は了解可能です。
2016-01-28 04:15:57「なぜ人を殺したらいけないのか」は、基本、道徳(哲学)分野の話ですね。「人を殺したらどうなるか?」が法の話。ただまあ、そもそも「人を殺してはいけない」という道徳が共有されていることが前提。
2016-01-28 04:16:08@doraephone それは、法に強制力が付与されているからですね。ただ、道徳の方もそこそこに強制力がある場合もあったり、一方で法も強制力が無くなって機能しなくなっている場合があったり・・・
2016-01-28 04:19:17