Lot.n歴史カフェ「弥太郎と栄一 無限の姿見」

Lot.n(ロットン:沼津市上土町)で毎月開催している歴史カフェ。2月は幕末から明治時代、日本経済の成長に大きな影響を与えた、岩崎弥太郎と渋沢栄一を取り上げます。若干間違ってるとこもあるかもしれないけど、そこはたぶん私の聞き間違い。
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かるの @karunohumihito

@mokaaan 水戸に居る昭武の元へ栄一が行けば、昭武は栄一を手元に置こうとする。そうすると、内輪意識の強い水戸藩士は嫉妬して(元は農民だし)栄一を殺すかもしれない、と水戸出身の慶喜の配慮でした。 後年、栄一は慶喜の名誉回復運動を展開し、「徳川慶喜公伝」を著します。

2016-02-03 21:36:53
Moka Hirata @mokaaan

@karunohumihito 昭武さんがやられるんじゃなくて、栄一さんがやられるのを考慮したのか。聞き損じてました。

2016-02-03 23:43:30
Moka Hirata @mokaaan

栄一は、静岡藩に出仕することを命じられたが、慶喜は栄一に自分の生き方をすることを望んだ。栄一は政府から補助を受けて、会社を立ち上げた。 #かるのーと #歴史カフェ #日本史

2016-02-02 20:14:01

商法会所(現静岡市葵区紺屋町)
栄一が静岡で立ち上げた金融商社。藩士の受け皿であり、地域経済活性化に一役買った。
ここでの活躍を見て、大蔵省から勧誘されることとなった。


Moka Hirata @mokaaan

その後、大蔵省から官僚になるように言われるが、自分の会社があることから最初は断っていた。が、大隈重信の説得をうけて、大蔵省に入省した。当時の大蔵省は業務が非常に多かったみたいね。 #かるのーと #歴史カフェ #日本史

2016-02-02 20:15:41
リンク Wikipedia 大隈重信 大隈 重信(おおくま しげのぶ、天保9年2月16日(1838年3月11日) - 大正11年(1922年)1月10日)は、日本の武士(佐賀藩士)、政治家、教育者。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵(公爵)。菅原姓。 政治家としては参議兼大蔵卿、外務大臣(第3・4・10・13・28代)、農商務大臣(第11代)、内閣総理大臣(第8・17代)、内務大臣(第30・32代)、貴族院議員などを歴任した。早稲田大学の創設者であり、初代総長である。 天保9年(1838年)2月16日、佐賀城下会所小路(現:佐賀市水ヶ江)に、佐賀
Moka Hirata @mokaaan

パリ行きになるまで一緒に動いていた渋沢喜作は幕末に陸軍奉行となり五稜郭まで戦ったため、新政府に投獄されていた。出獄した彼に、栄一はヨーロッパで農業を学ぶことを命じた。帰国した喜作は、富岡製糸場を作った。 #かるのーと #歴史カフェ #日本史

2016-02-02 20:17:53
かるの @karunohumihito

@mokaaan 尾高新五郎も振武軍という義勇軍を率いて新政府軍と戦いました。その中で栄一の養子となった平九郎は上野戦争で戦死・・・。 あれ、みんな倒幕に燃えてた人たちなんだが・・・。

2016-02-03 21:41:03
Moka Hirata @mokaaan

@karunohumihito そうそう、そこらへんの人たちは倒幕派で幕府がなくなったのに、今度は政府軍とやりあってるのよね。よく分かんないのがこのへんだねwww

2016-02-03 23:45:46
リンク Wikipedia 渋沢成一郎 渋沢 成一郎(しぶさわ せいいちろう、1838年7月30日(天保9年6月10日) - 1912年8月30日)は、江戸時代の武士、明治時代の実業家。渋沢栄一の従兄。諱は英明、号は廬陰。明治以降は幼名に復して渋沢喜作(しぶさわ きさく)を名乗った。 1838年、武蔵国血洗島村(現埼玉県深谷市)の農民・渋沢文左衛門(文平)の長男として生まれる。青年に達した成一郎は、尊皇攘夷の志をもった親戚の篤太夫(のちの渋沢栄一)らと共に高崎城乗っ取り計画を計画するも頓挫。一旦は江戸へ逃れるが、元治元年(1864年)、一橋家当
Moka Hirata @mokaaan

栄一は、予算作成を強硬に訴え、大久保や大隈と対立。栄一と井上馨は大蔵省を退官する。そして銀行の設立を目指す。 #かるのーと #歴史カフェ #日本史

2016-02-02 20:19:40
リンク Wikipedia 井上馨 井上 馨(いのうえ かおる、天保6年11月28日(1836年1月16日) - 大正4年(1915年)9月1日)は、日本の武士(長州藩士)、政治家、実業家。本姓は源氏。清和源氏の一家系河内源氏の流れを汲む安芸国人毛利氏家臣・井上氏の出身で、先祖は毛利元就の宿老である井上就在。首相・桂太郎は姻戚。同時代の政治家・井上毅や軍人・井上良馨は同姓だが血縁関係はない。 幼名は勇吉、通称は長州藩主・毛利敬親から拝受した聞多(ぶんた)。諱は惟精(これきよ)。太政官制時代に外務卿、参議など。黒田内閣で農商務大臣を務め、第2
Moka Hirata @mokaaan

株式会社第一国立銀行、開業。国立の銀行じゃなくて、ナショナルバンクを訳したら国立銀行になっちゃったwまぎらわしいんじゃwwww #かるのーと #歴史カフェ #日本史

2016-02-02 20:20:55
Moka Hirata @mokaaan

栄一は頭取に。まぁ、パワーバランスから栄一が就任した。 #かるのーと #歴史カフェ #日本史

2016-02-02 20:21:13
Moka Hirata @mokaaan

銀行を作ってみたものの、まだ融資先があんまりなくて業務にならないwwwってことで、栄一は日本に必要そうな企業を作っていくことになる。まずは抄紙会社(現・王子製紙)を立ち上げる。 #かるのーと #歴史カフェ #日本史

2016-02-02 20:23:04
かるの @karunohumihito

@mokaaan この辺りだと、身延線の前身である富士身延鉄道の立ち上げに関わってます。

2016-02-04 18:10:20
Moka Hirata @mokaaan

@karunohumihito 身延線、栄一さんがキッカケだったのか!?大変な工事だったんだろうな。

2016-02-05 07:53:10
リンク Wikipedia 身延線 身延線(みのぶせん)は 静岡県富士市の富士駅と山梨県甲府市の甲府駅を結ぶ東海旅客鉄道(JR東海)の鉄道路線(地方交通線)である。 駿河湾沿岸部から甲府盆地にかけて、富士山と赤石山脈(南アルプス)に挟まれた富士川の流域を走る山岳路線である。全線にわたり富士川の左岸(東側)を通り、本流を渡ることはない。北側は甲府盆地内の鰍沢口駅、南側は西富士宮駅付近まで地形が開けており、沿線人口が多い両端部での区間運転も多い。また中京地方以西と山梨県を行き来するには最も利用しやすい鉄道ルートで、静岡駅で東海道新幹線と接続する
Moka Hirata @mokaaan

そして商工会議所、証券取引所、など商業の活動に必要な組織を立ち上げていく。 #かるのーと #歴史カフェ #日本史

2016-02-02 20:24:27
Moka Hirata @mokaaan

田園調布を整備したのも、栄一だとΣ(゚Д゚) #かるのーと #歴史カフェ #日本史

2016-02-02 20:24:44
Moka Hirata @mokaaan

栄一は、1業種2社以上をたちあげることにしていた。競争がなければ、国民のためにならないと考えていた。 #かるのーと #歴史カフェ #日本史

2016-02-02 20:25:23

栄一と弥太郎の闘い


政府と組んで海運の独占を図っていた弥太郎と、競争原理による資本主義の成長を狙った栄一は、どこかでぶつからなければならなかったのね


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