他動詞的「教育」から自動詞的「学育」へ

「教える」「育てる」という押しつけがましい姿勢だと、子供は学ぶ意欲を失いやすい。それよりは「育つ」「学ぶ」といった自主的な力をどう培うかを大人は考えた方がよい。
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shinshinohara @ShinShinohara

子どもを大人が育てる時、「教育」と呼ばれる。しかしこの2文字を「教える」「育てる」というようにどちらも他動詞として捉えるなら、子供の心を萎縮させやすい。せめて2文字目は「育つ」という自動詞で捉えたほうがよい。「助長」になってしまうからだ。

2016-03-11 19:17:04
shinshinohara @ShinShinohara

「助長」は有名な話。隣の畑より育ちが悪い自分の畑の苗を見て、「早く育て」と引っ張って、苗をすべて枯らしてしまった話。他動詞的「教育」は、「教える」「育てる」と、大人から子供への働きかけを重視しすぎている。働きかければ働きかけるほど、「育つ」という自律的な力は失われる。

2016-03-11 19:18:49
shinshinohara @ShinShinohara

苗を元気に「育てる」ことはできない。しかし苗が元気に「育つ」ようにすることはできる。適切な土づくり、水やり、肥料。環境を整えれば苗は内在する力で「育つ」。子供もそう。「育つ」力は子供のうちにある。しかし「育てる」力は私たちにはない。子どもは「育つ」のであって「育てる」のではない。

2016-03-11 19:25:08
shinshinohara @ShinShinohara

「教育」を他動詞的「教える」と自動詞的「育つ」の組み合わせと考えることもできるが、最近、私は「教える」こと自体に疑問を持つようになっている。もちろん「教える」ことがないとチンプンカンプンのことは多いから教えなければならない。しかしそれ以上に「学ぶ」という自律性が重要だ。

2016-03-11 19:27:01
shinshinohara @ShinShinohara

たとえば数学の公式を「教える」ことにしたとする。しかし子供の側に「学ぶ」姿勢がないと馬耳東風、馬の耳に念仏、暖簾に腕押し、糠に釘。子どもはちっとも憶えない。子どもに学ぶ姿勢がない限り、「教える」は無力。つまり、大切なことは他動詞的「教える」ではなく自動詞的「学ぶ」なのだ。

2016-03-11 19:28:32
shinshinohara @ShinShinohara

子どもに「学ぶ」自主性がある場合、何を教えても綿が水を吸うように浸み込む。いっそ教えなくても勝手に学ぶ。漫画やゲーム、男の子ならヒーローもの、女の子ならおしゃれグッズの知識が勝手につくように、自動詞的「学ぶ」がある場合、教えなくてもどんどん吸収してしまう。

2016-03-11 19:36:16
shinshinohara @ShinShinohara

そう考えると、「教える」「育てる」といった他動詞的「教育」はほぼ無力。「学ぶ」「育つ」という自動詞が成立しているとき、子供は大人の予想を超えて成長する。ならばいっそ、「教育」という言葉をやめて「学育」とした方がよいのかも知れない。自動詞だけで考えるのだ。

2016-03-11 19:38:19
shinshinohara @ShinShinohara

「うちの子は自分からだとちっとも勉強しようとしなくって。無理にでも教えようとしなければいったいどうなってしまうことか」と不安になるのも分かる。しかし、他動詞的「教育」はやはり効果が薄く、無理やり効果を出そうとすると副作用が強い。「学習性無気力」に陥ることも多い。

2016-03-11 19:42:11
shinshinohara @ShinShinohara

学習性無気力とは、何をどうあがいても電気ショックから逃れられない犬が、「もう何をやっても無駄だ」と学習してしまい、電気ショックから免れる手段を用意しても動こうとせず、じっと無気力に痛みに耐えるようになること。他動詞的「教育」を受けるとこれに陥りやすい。

2016-03-11 19:43:43
shinshinohara @ShinShinohara

友達と遊ぶのも無駄、テレビを見るのも無駄、漫画を読むのも無駄、とにかく勉強しなさいと追い立てられたら、「何を抗議してもムダ」という学習性無気力が生じ、勉強自体にも意欲を失いやすい。希望の大学に合格した途端、勉強を一切しなくなるボウフラ学生になることも多い。

2016-03-11 19:45:21
shinshinohara @ShinShinohara

自ら「学ぼう」、「育とう」という自律性を大切にした方がよい。自動詞的「学育」が望ましい。自ら学ぼうとし、育とうとする場合、これを学んだら次はあれ、と絶え間なく学び、これが克服出来たら次はあれ、と絶え間なく育つ。自主的自律的に、自ら欲して学び育つ力は、最も力強い。

2016-03-11 19:47:32
shinshinohara @ShinShinohara

ではいかにして自動詞的「学育」に至るのか。苗と同じ。苗が育つ力を信頼し、土づくり、水やり、肥料やりという環境を整えること。そうすれば苗が勝手に力強く育つ。子どもも、自らが備える力を発揮できる環境に置かれれば、勝手に学び、育つ。なぜなら子供は学ぶこと、育つことが大好きだからだ。

2016-03-11 19:49:37
shinshinohara @ShinShinohara

考えてみよう。言葉を憶えるという非常に難しくて面倒くさいことをなぜ子供は自ら進んでやろうとするのだろう?二本足で立つという極めて危険な歩行法をなぜ子供は自ら進んで身に着けようとするのだろう?学ぶこと、育つことが本能的本質的に好きだからだ。

2016-03-11 19:50:52
shinshinohara @ShinShinohara

学ぶこと、育つことを嫌がるようになった子供は、学ぼう、育とうとしたときに嫌な思いをした経験がある。「そんなことを知らなくてもいいの!」「今は忙しいの!つまらないこと聞かないで!」「なんでそんな余計なことをしたの!もう一度洗濯しなおさなきゃいけないじゃない!仕事増やさないでよ!」

2016-03-11 19:52:57
shinshinohara @ShinShinohara

親は家事や仕事で忙しい。子育てにも大いに不安がある。神様仏様ではないのだからいつも平常心ではいられない。だからつい、子供に当たってしまうことがある。その時、子供が学ぼう、育とうという意欲にケチをつけてしまうような言い方になってしまうことがある。悲しいかな、それが人間。

2016-03-11 19:54:43
shinshinohara @ShinShinohara

親になる人は皆、初めて親になる。だから失敗することもある。これは仕方ない。ただ、失敗しっぱなしではなく、失敗から学び、軌道修正する必要はある。子どもが自律的に学ぼう、育とうとする行為を、なるべく邪魔しないように、意気を削がないように言葉を選ぶ必要がある。

2016-03-11 19:56:14
shinshinohara @ShinShinohara

子どもが「ねえ、見て見て」とお絵かきをしたとき、「お、この色使い面白いね。この線、シュッと長くてきれいだねえ。」自分のやったことがどんな風に見えるのかを知った時、「今度は色をもっとたくさん使ってみよう」「どれだけ長い線を書けるかやってみよう」と意欲を掻き立てられる。

2016-03-11 19:58:11
shinshinohara @ShinShinohara

子どもがジグザグ走行をしたら「お、ジグザグ走行!ターン!ターン!ターン!」と声をかけると、もっと激しく切れ味鋭くジグザグ走行しようとする。親の声掛けで背中を後押しすると、子供はもっと面白くしてみようと意欲を掻き立てられる。その意欲こそが「学ぶ」「育つ」になる。

2016-03-11 20:00:34
shinshinohara @ShinShinohara

子どもが自律的に学び、育とうとするのを、大人はどう接することができるのか。合気道に似ているかもしれない。相手の動きに合わせてその動きを増幅するのが合気道の真骨頂。大人は子供の学ぼう、育とうとする動きにそっと背中を押す、合気道のような動きを心掛けるとよいだろう。

2016-03-11 20:03:30
shinshinohara @ShinShinohara

赤ん坊だった子供が初めて立った時のことを思い出してみよう。「立った立った!わあ、やった!」と手を叩いて喜んだだろう。子どもは大人のその反応を見て「立ったらこんなに大騒ぎになるんだ。ようし、今度は立つどころか歩いてやろうか」とさらなる挑戦を始める。

2016-03-11 20:05:39
shinshinohara @ShinShinohara

子供が成長した、それを拍手して喜んだ。そんな「背中の一押し」が子供の「学ぶ」「育つ」という自主的学習意欲を掻き立てる。他動詞的「教育」から自動詞的「学育」へ。私たちもそろそろ、考えを変えていかなければならない時期に来ているのかもしれない。

2016-03-11 20:07:01