学校教育について
- hironakayuriko
- 5532
- 0
- 1
- 0
1.フィッシュキンは、「メリット」(メリトクラシーのmerit)と「生活機会の均等」と「家族の自律性」とは三つ同時には実現できないと言っている。
2011-06-27 12:35:573-1.「実力」と言っても、最初から恵まれた立場に置かれてしまえば、その本人の「実力」とは言い難い。実力主義は、家族主義的な階級制と反するように見えるが、結果的には家族主義的、地域主義的な“格差”を温存する場合も多い。
2011-06-27 12:39:224.「メリット」と「生活機会の均等」とは「子供は社会の子供」という立場にほぼ立っている。後者の「家族の自律性」は子育ての権利は(社会ではなくて)親に属しているというものだ。
2011-06-27 12:40:425.学歴社会における〈学校教育〉の意義は、子供を教育することを、親の影響や地域の影響、あるいは世代の影響からも隔離することにある(どこまでいっても相対的な隔離に過ぎないが)。1+1=2を教えることに、あるいは学ぶことに親も地域も世代も(場合によっては社会も)必要ないからだ。
2011-06-27 12:41:567.その分、〈学校教育〉にはその〈教員〉資格が国家的に条件付けられている。どんな僻地の学校にも大学を卒業して教員国家資格を持った〈教員〉が「先生」と言われながら存在している。
2011-06-27 12:43:308.このことの意味は、〈学ぶ主体〉を〈学校教育〉以前には認めないということだ。学ぶ主体を〈生涯学習〉的な視点から認めてしまうと、結局のところ、自動詞的な〈学び〉が前面化する。学ぶ「意欲」や学びの「個性」が前面化する。
2011-06-27 12:44:169.言い換えれば、何か〈を〉学ぶという対象への集中(いわば漱石的な〈則天去私〉)よりは、それ以前に存在する抽象的な〈私〉の〈学び〉が存在することになる。世界は、客観ではなくて、〈私〉の自己表現の手段と見なされる。cf.「オンライン自己」の誕生 http://ow.ly/5qNSG
2011-06-27 12:46:2110.1980年代後半の中曽根臨教審答申以来、個性教育と生涯学習はパッケージで前面化してきた。〈個性〉ばかりではなく「関心・意欲・態度」が各科目評価に加わったのも中曽根臨教審答申を受けた92年の新学習指導要領以来のことである。
2011-06-27 12:47:0511.ペーパー試験で100点とっても「関心・意欲・態度」の“悪い”者は、80点扱いになる。評価全体の内、2割が「関心・意欲・態度」評価に当てられている。つまり〈知識〉や〈技術〉の累積と「関心・意欲・態度」とは別のものだという判断がこの評価には働いている。
2011-06-27 12:47:4912.外面的な(=外からの)注入型の教育と「関心・意欲・態度」が切り離されてしまえば、この「関心・意欲・態度」を担う主体は、学校教育以前の〈パーソナリティ〉でしかない。いわゆる〈人間論〉が前面化する。
2011-06-27 12:50:4013.人間はそもそもが内発的に学習する主体(=学びの主体)だという生涯学習論の思想的基盤もそこにある。教員は(上から権力的に)教える者ではなくて、サポーター役、あるいはファシリテーター役に留まる。
2011-06-27 12:51:2116. 実際、池田寛(大阪大学)、苅谷剛彦(東京大学)たちが明らかにした「関西調査」では、学びの個性論教育、あるいは意欲主義教育は、むしろ、学力格差を拡大することになったことをデータから示している。
2011-06-27 12:55:3717-1.「関西調査」の結論は三つある。一つには、中曽根臨調以来の個性主義教育+意欲主義教育は学力格差をむしろ拡大するということ。二つ目には、意欲を育てるのはむしろ学力であって、学力のない者は意欲もないということ。(続く)
2011-06-27 12:58:5117-2.三つ目には、「学び合い」などの児童・生徒たちの意欲的な「学び」を前提とした「新学力観」型授業は、学力格差を拡大するということ。この三つである。
2011-06-27 12:59:2119.結局のところ、中曽根臨教審以後の個性主義教育+意欲主義教育は、〈学校教育〉に《家族》と《地域》を持ち込んだだけのことである。それは〈キャリア教育〉の名の下に、《社会》や《時代》が〈学校教育〉に入り込みつつあるのと同じ事態だ。
2011-06-27 13:01:4420-1.現在、〈学校教育〉は、入口と出口において、その境界を無くしつつある。この事態は〈学校教育〉が〈生涯学習〉と等置された臨教審路線の反映に過ぎない。
2011-06-27 13:02:4620-2.80年代とバブル期以降、IT革命以降のグローバリゼーションによる労働市場の大変化(高卒市場の10分の一の縮小)=キャリア教育の登場とは一見、別物のように見えるが、しかし臨教審の〈学校教育〉=〈生涯学習〉論は〈キャリア教育〉に親和的である。
2011-06-27 13:03:0421-1.臨教審当時、書記係役的に関わっていた寺脇研は、新学力観型の「ゆとり教育」批判にさらされた後にも次のように振り返っていた。「『ゆとり教育』へと進む方向は、明らかに時代の要請であり流れです。(続く)
2011-06-27 13:06:2821-2.…そもそも、こうした流れは、一九八四年に中曽根首相の主導のもとにできた臨時教育審議会(臨教審)で確立されました。いまの『錦の御旗』は臨教審なのです。そこで『生涯学習』という理念が決まりました。(続く)
2011-06-27 13:07:28