漫画の『天才バカボン』が連載中の「少年マガジン」から「少年サンデー」に突然移籍した時は驚いたな〜。赤塚先生が『もーれつア太郎』を連載していたサンデーの編集長に「ア太郎の人気が出ないからバカボンくれ」と泣きつかれたんだよね。これで赤塚先生はしばらく講談社出入り禁止になった。
2016-03-11 22:25:06しばらく少年サンデーに『バカボン』と『ア太郎』が同時連載されていたが、そのうちア太郎にニャロメが登場してバカボンの人気を抜いた。そしたら編集長「もうバカボン要らない」。赤塚先生は講談社に詫びてバカボンをマガジンに戻した。丁度バカボンのアニメ化が決まり、これが手土産になったという。
2016-03-11 22:30:11私も、いきなり移ったのには子供心にビックリした記憶があるが、そういうことだったのか。 twitter.com/kentaro666/sta…
2016-03-11 22:54:39当時のサンデーの編集長が、新人時代にとても世話になった編集者だったので、断り切れなかったようです。赤塚先生は義理人情の人なんですよね。 twitter.com/kobuta_11/stat…
2016-03-11 23:00:36@kentaro666 話を単純化されたのだと思いますが、実際にはもう少し事情は複雑です。僕は武居さん・五十嵐さんに直接話を聞きました。
2016-03-11 23:11:59@kentaro666 それは著書にも書かれているのですでに公です。著書ではまず「ぼくらマガジン」に移籍させてから、「ぼくらマガジン」の休刊を経て「マガジン」に異動する形にした。これは、すぐの復帰は講談社のプライドが許さなかったからだ、と武居さんは考察しています。
2016-03-11 23:16:56@kentaro666 実はこの話もちょっと盛られていて、「ぼくらマガジン」でのバカボン復帰以前に、「死神デース」という短期連載も「ぼくらマガジン」に載っているので、手土産前は完全出入り禁止というわけでもありません。
2016-03-11 23:18:43@kentaro666 なお、60年代後半のサンデーは頻繁に編集長の交代があり(武居さんの著書ではハッキリとは書かれていない)、それ以上に存在感のある方が上にいた、ということが著書に書かれています。
2016-03-11 23:21:09@saikifumiyoshi それ以上に存在感のある人とは、サンデー4代目編集長でビッグコミックを創刊した小西湧之助さんですかね?
2016-03-11 23:28:40@kentaro666 著書では「T部長」という形で出てきます。小西さんは当時ビッグコミックの創刊で大変でしたので、この時期のサンデーにはかかわっていないはずです。
2016-03-11 23:31:25@kentaro666 あ、いえ名前がすぐ出てきませんが、「徳」がつく方だったと思います。聞いた話では、かなり前(70年代)に亡くなられたそうです。
2016-03-11 23:35:44@kentaro666 武居さんの著書は(講談社に比べて)明かされていなかった60年代の小学館のことがわかるのでお勧めします。なお、それをふまえて僕が担当した五十嵐さん・武居さんインタビューはこちらです。 comicpark.net/new/topic/akat…
2016-03-11 23:39:37@kentaro666 余談ですが、この時期のちょっと前にサンデーの「あかつき戦闘隊」の軍国主義的内容が問題になりましたが、この抗議側の資料に広瀬部長の名前が出てきます。 hico.jp/ronnbunn/furut…
2016-03-11 23:46:36竹熊健太郎さんがバカボンのサンデー移籍の話をずっとしているが、武居本や名和本と正反対のことを言ってて戸惑う。まーたあの人の悪い病気出たかなぁ…(定説では、サンデーが赤塚先生に移籍話を持ちかけた。もっというとルーツは長谷邦夫の戯れ言) #天才バカボン
2016-03-11 23:09:56@kentaro666 自分が知ってる限りでは、移籍を持ちかけてきたのはサンデー側(下手人は武居記者)でしたね。で、長谷さんが「バカボンもサンデーでやればいいんだよ」と酒席で言って、そのときは無視されていたけど…という話でした。名和広さんの赤塚本でもそういう描写でした。
2016-03-11 23:38:50