丹羽長秀・長重・光重の城くらべ~「棚倉町歴史講座」より

二階堂盛義(@nikaidoow )殿による、福島県棚倉町歴史講座のレポート。 今回のテーマは「丹羽家の城」
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二階堂盛義 @nikaidoow

此度の棚倉町歴史講座は「棚倉城跡の国指定史跡をめざして」と題し、棚倉藩初代藩主である丹羽長重殿にちなみ、棚倉白河二本松の城について資料を元に詳しく解説されておりもうした。入口には男前な丹羽長重殿 #棚倉町歴史講座 pic.twitter.com/ozIbeydVF3

2016-04-15 20:58:08
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二階堂盛義 @nikaidoow

まずは棚倉町より棚倉城の研究を任されておられる東北芸術工科大学北野教授による「丹羽家ゆかりの城石垣を読む」だが、丹羽長秀殿の佐和山から丹羽光重殿の二本松迄の石垣の流れを映像と共に学んでいく流れに御座いもうした。 #棚倉町歴史講座 pic.twitter.com/DWXE1EVtyE

2016-04-15 21:02:22
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※念のため補足

・丹羽長秀(にわながひで)
五郎左衛門。織田信長の二番家老。
米五郎左(目立たないが、米のように欠かせぬ男の意)の異名をとる、有能な補佐役。
築城の名手としても知られ、安土城の普請では総奉行を務めた。
本能寺の変後は、羽柴(豊臣)秀吉を後援し、一説には123万石ともいわれるほどの大封を得るが、天正13年(1585)年4月に51歳の若さで病没する。

・丹羽長重(にわながしげ)
長秀の嫡男。
父の死により、若干15歳で家督を継承するも、秀吉から次々と領地を没収され、一時は4万石の小大名にまで転落(のち12万5千石まで回復)。
関ヶ原では西軍に属し、北陸で奮戦した(浅井畷の戦い)ものの、本戦で西軍が敗北してしまったため、丹羽家は取り潰されてしまう。
しかし、その3年後に常陸古渡1万石での大名復帰を許され、常陸江戸崎、陸奥棚倉と徐々に加増され、最終的に陸奥白河10万700石の大名となった。
父と同じく、築城の名手であり、本講座の主催である福島県棚倉町の「棚倉城」や、東北三名城の一つである「白河小峰城」を手掛けた。

・丹羽光重(にわみつしげ)
長重の嫡男。
家督継承後、幕府の命により、陸奥二本松へ転封する。以後、丹羽家は「二本松藩」として同地に定着した。
「忠臣蔵」で有名な「松の廊下事件」の際は、縁戚の浅野内匠頭が、吉良上野介を討ちそこなったと聞き、
「なぜ斬らずに突かなかったのか! 突けば仕留められたものを!」
と激怒し、持っていたキセルを煙草盆に叩きつけたという。

初代・丹羽長秀の城(織田~豊臣政権前期)

二階堂盛義 @nikaidoow

北野先生による丹羽家に関わる城の石垣の話 ・基本的に丹羽長秀殿の頃は殆どが旧城の再整備である為、石垣等も修復はした可能性はあれどどの辺りが丹羽氏の改築かは分からない長秀殿が関わる城は近江佐和山、若狭後瀬山城(山城)と安土城、近江坂本、近江大溝、越前北ノ庄城 #棚倉町歴史講座

2016-04-16 09:22:34
二階堂盛義 @nikaidoow

・近江や若狭での城は造営者は定かではない ・間違いなく長秀殿が指示した石垣があるのは長秀殿が普譜総奉行を勤めた安土城のみ ・一揆や包囲網の中で敵対関係が強かった穴太衆を纏めた長秀殿の人柄や有能さが窺える ・佐和山の石垣は丹羽氏の後に入った堀氏・堀尾氏ではないか #棚倉町歴史講座

2016-04-16 09:31:46

穴太衆(あのうしゅう)
近江(滋賀県)の石工集団。安土城の石垣などを請け負ったことで有名。
彼らの手がけた石垣の中でも、石を加工せず、自然石のまま積み上げる「野面積み」の技法で築かれたものを、俗に「穴太積み」「穴太式」と呼ぶ。

二代・丹羽長重の城(豊臣~江戸時代前期)

二階堂盛義 @nikaidoow

長重殿が関わった城は加賀の松任城・小松城、常陸の古渡城・江戸崎城、陸奥の赤館城・棚倉城・小峰城。そのうち棚倉城は新造 ・現在棚倉城が建っている場所は元は近津大明神が在った地であったのを長重殿が移動させ城の築城を始めた #棚倉町歴史講座

2016-04-16 12:43:47
二階堂盛義 @nikaidoow

棚倉城は同時期に山形へ移った徳川譜代の家臣・鳥居家らが築いた新庄城、山形城と形状が似ている ・伊達に隣接する地域に譜代を置いたのは重用しつつ警戒した伊達政宗への釘刺しの可能性も? ・徳川譜代と似た構造の築城をした事は、丹羽家も伊達包囲の一翼を担った可能性もある #棚倉町歴史講座

2016-04-16 12:52:12
二階堂盛義 @nikaidoow

・棚倉城は土塁の城 ・一部分にある石垣は段丘崖の西縁をうまく利用しており、下に堀がある ・石材は久慈川水系の川原石を使用し、多様な石材が使用されている ・主に玉石が使用されている ・隅の部分に一部粗加工石を使用しているが、基本は自然石が主体 ・二千余りの石を使用 #棚倉町歴史講座

2016-04-16 12:57:24
二階堂盛義 @nikaidoow

・形、大小様々な石を使用 ・下ではなく中間部に大きな石を鏡積みにし、大きめの石や横に長い石を飛び飛びに入れていく事と、石垣表面を平らに見せる為に隙間に間石を詰め込んだり飛び出た石を削るなど。構造上だけでなく視覚的な効果も計算された石垣の造りとなっている #棚倉町歴史講座

2016-04-16 13:01:04
二階堂盛義 @nikaidoow

・当時の主体は布積みだったが、長重殿が新造した棚倉城の石垣は桃山時代の美術性を取り入れた、日本で最後の穴太式の石垣になる ・その後移った小峰城で造った石垣は算木積という当時の主流で、たった数年で両方の石垣造りをやってのけた ・石は白川石(疑灰岩)を大量使用 #棚倉町歴史講座

2016-04-16 13:09:04
二階堂盛義 @nikaidoow

・小峰城の石垣は当時の主流だった寛永様式だが、築石部に横に長い石を点在させたり、角脇の石を大面に見せたりと所々に棚倉城の石垣と同じ手法が見られ、他ではあまり見られぬ特長ゆえ、丹羽家の独自色なのかも知れないとの事 ・長重殿が作る石垣は、大石、横長石、間詰石が特徴的 #棚倉町歴史講座

2016-04-16 13:16:23
二階堂盛義 @nikaidoow

小峰城の矢之門南側の石垣は、丹羽氏が造った後に一部が修復されているが、造り方が全く違うので分かりやすい。 ・調査の為に石垣を崩したところ、10m程の盛り土があった。武家屋敷を移動させる為に阿武隈川の流れを変えた事などから大々的な工事の後築いた城だと分かる #棚倉町歴史講座

2016-04-16 13:22:27

三代・丹羽光重と二本松藩の城(江戸時代)

二階堂盛義 @nikaidoow

・二本松の石垣は元は蒲生・加藤時代にある程度整備されていたものを光重君が二本松に入ると同時期に技術者を召抱え石垣を再度修理した ・その為、二本松の石垣は様々な石垣の形状が見れる、「石垣の博物館」丹羽家が修理したのは箕輪門脇と総曲輪 ・二本松以降は布積み石垣 #棚倉町歴史講座

2016-04-16 16:03:48
二階堂盛義 @nikaidoow

天保年間の石垣は、洗練された素晴らしい石垣 ・大手門は残っていないが、大手門跡に残る切石積などは非常に精緻で、市の方で何とか出来ないかと思うも既に住宅街になっている為市でも難しいとの事 ・丹羽家の城石垣技術は伝統的な物から時代の主流まで押さえてある #棚倉町歴史講座

2016-04-16 16:09:20
二階堂盛義 @nikaidoow

・丹羽家ゆかりの城を巡ると日本の石垣技術の多様性と発展過程が読み取れる ・既に国史跡になっている、丹羽家ゆかりの小峰城・二本松城とともに棚倉城も国史跡になっても不可思議ではない ・滋賀に負けず、復活の地として棚倉町×丹羽長重発展プロジェクトを立ち上げてみては? #棚倉町歴史講座

2016-04-16 16:14:55
二階堂盛義 @nikaidoow

棚倉町生涯学習課 調査員殿の調査概要 ・平成27年度の土塁上発掘調査の報告 ・今まで絵地図でのみ確認されていた「多門櫓」の存在を確認 ・近世の城で土塁上に長大な多門櫓が本丸を全周する事例は全国的にも希少であり、歴史的価値は高い ・国史跡を目指すにむけ、大きな成果 #棚倉町歴史講座

2016-04-16 16:20:08
二階堂盛義 @nikaidoow

白河市文化財課の方の話 ・白河小峰城の概要および現段階の修復状況 ・ワシ、北野先生の講和と混ぜて書いたかも知れぬ ・震災で崩れた部分は、大体が近年修復された箇所で、江戸時代に造られた石垣は比較的無事であったとの・江戸期に造られた形状と同じになるよう修復中 #棚倉町歴史講座

2016-04-16 16:24:43
二階堂盛義 @nikaidoow

二本松城の概要 二本松市教育委員会の方の話 ・畠山時代から丹羽時代における二本松城の遍歴 ・中世城館と近世城郭が同一箇所で営まれた稀有な地 ・畠山や伊達時代と違い、丹羽時代は戦の為の城から政治の為の城になった為、光重君入城後に大規模な町並み変革が必要となった #棚倉町歴史講座

2016-04-16 16:30:01
二階堂盛義 @nikaidoow

・以前は城前に武家屋敷や町人長屋が雑多に並び、街道も城側に在ったものを、光重君が入ってから観音丘陵を利用し街道と町人屋敷を城前から離す事で、城や武家屋敷が見えにくいようにした ・歴代藩主の悲願であった大手門は天保三年に傑物家老・丹羽貴明殿の構想による物 #棚倉町歴史講座

2016-04-16 16:36:53
二階堂盛義 @nikaidoow

・その大手門は半世紀も持たず戊辰戦争で焼失したが、現在「亀甲積み崩し」技法による石垣が大手門跡に残っている ・戊辰後、三の丸にて製糸工場が稼動 ・大正末期まで、三の丸は工場として活用される ・昭和10年、城に先立ち「旧二本松藩戒石銘碑」が国史跡指定 #棚倉町歴史講座

2016-04-16 16:41:19
二階堂盛義 @nikaidoow

・昭和24年に、城跡が県立自然公園に認定 ・本丸跡に立った宗教団体との立ち退き問題で色々揉める、小説になるくらい揉める ・平成19年、小峰城より先に二本松城跡として国史跡に指定される ・二合田用水の整備や回遊式庭園整備など、歴代藩主の二本松での仕事ぶり紹介 #棚倉町歴史講座

2016-04-16 16:44:35