豊臣政権の「惣無事令」をめぐる考察~(大河ドラマ・真田丸18回「上洛」から)

http://www.nhk.or.jp/sanadamaru/story/story18.html で描かれた、真田昌幸の上洛と豊臣秀吉への臣従、そこから、政権下で大名同士の”戦争”を禁じる、いわゆる惣無事令に関して少し話が出ました。しかしご存知の方も多いでしょうが、「惣無事令」をめぐってはその性質や効力をめぐって多くの議論があります。それを踏まえてどう描かれたのか?またその法の本質は?特に同番組の考証に直接かかわる丸島和洋氏、法哲学者大屋雄裕氏のツイートに注目。
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Gryphon(INVISIBLE暫定的再起動 m-dojo) @gryphonjapan

#真田丸 ここでまた司馬遼太郎を持ち出すのもなんだが、司馬の秀吉―昌幸の描き方は、大谷の役を秀吉にやらせたような感じで「やあやあ、武勇のそなたにあやかりたいぞよ」的にべた褒めし一気に心を蕩かした、と描写している(関ヶ原)。 「秀吉はこういう田舎大名の心を掴む天才だった」と(笑)

2016-05-08 20:44:54
Gryphon(INVISIBLE暫定的再起動 m-dojo) @gryphonjapan

#真田丸 惣無事令のあと、大名を「与力制」にして序列と指揮系統をつけていたことは知らなんだ。 しかし、実質的な領土保全より、名目的な主権・独立性にこだわるなら「表裏比興」とは程遠くなるわけで、そこを「内心葛藤しつつ…」と描くのが、これからの腕の見せ所かな?

2016-05-08 20:48:44
丸島和洋 @kazumaru_cf

ようやく父上が上洛しました。いろいろ「悲哀」が漂った回だと思います。昌幸の出仕ですが、従来は『家忠日記』の記述から天正15年3月頃とされていました。

2016-05-08 21:01:22
丸島和洋 @kazumaru_cf

しかし、2013年に出された古書店の目録に2月24日付け豊臣秀吉御内書が掲載されており、話しが変わりました。宛所は「徳川中納言殿」とあったからです。この文書は、内容から天正15年と特定できるものでした。そして文中に「小笠原并真田両人事、召上対其方可随心之旨被仰聞」とあったのです。

2016-05-08 21:03:50
丸島和洋 @kazumaru_cf

そうすると、従来年未詳で、真田信之のものとされてきた飯島市之丞宛て正月四日付朱印状が、注目を浴びることになります。「今度上洛付而、別而取成之致奉公候」とあります。『信濃史料』は、真田昌幸朱印状を信之朱印状と誤記することが多く、これもその一例でした。

2016-05-08 21:06:21
丸島和洋 @kazumaru_cf

飯島市之丞は、第二次上田合戦で昌幸家臣として参陣し、九度山に供奉するひとりです。これにより、昌幸上洛は天正15年正月以前から準備が進み、2月に上洛したと、年次が修正されることになりました。最終目的地は、大坂ですが、昌幸の認識としては「上洛」であったわけです。

2016-05-08 21:08:20
丸島和洋 @kazumaru_cf

もともと、昌幸が上洛を渋っていたのは、木曾義昌・小笠原貞慶とともに家康配下に戻されるという情報が入っていたためでした。結果的に、「独立大名」(秀吉直臣)だが、戦時には家康の「与力」となる「与力大名」という形で落ち着きました。

2016-05-08 21:10:56
丸島和洋 @kazumaru_cf

ドラマで家康が読んでいた秀吉からの書状は、現物と同じ文章のものをそのまま作成してもらいました(字の崩れ方は違いますが)。

2016-05-08 21:12:07
丸島和洋 @kazumaru_cf

これは結果的に言えば、折衷案です。秀吉の政策は、意図的かはわからないのですが、「国衆」という大名領国内の自治領主を廃止していく方針があります。ですので、昌幸が徳川家臣になる可能性もあったわけです。ただ、心情としてはかなり複雑であったでしょう。

2016-05-08 21:14:44
丸島和洋 @kazumaru_cf

なお、同じく徳川与力大名扱いになった小笠原・木曾両氏は、小田原合戦後、家康が関東に転封される際に、同時に関東に移され、事実上徳川家臣となります。この時、真田だけが与力大名から外され、独立大名化するのですが、どういう考えに基づいて運命が分かれたのかは判然としません。

2016-05-08 21:16:22
丸島和洋 @kazumaru_cf

なお真田昌幸・小笠原貞慶は、3月18日に駿府を訪れ、家康に「出仕」しています。これは「関白様御異見」によるもので、徳川筆頭家老酒井忠次が同道してのものでした(『家忠日記』)。

2016-05-08 21:18:43
丸島和洋 @kazumaru_cf

太政大臣の読みについて。これは「だいじょうだいじん」でお願いしました。天正本の『節用集』(国語辞典)、『日葡辞書』ともに「だいじょうだいじん」とあるからです。

2016-05-08 21:22:24
丸島和洋 @kazumaru_cf

あ、失礼。「だいじゃうだいじん」が正確でした 『日葡辞書』だと、Daijo daijin です。

2016-05-08 21:23:40
涼夏(MIRAGE THEATRE 上映イベント開催中!) @Ryounatu

@kazumaru_cf 気になっていました。出典教えてくださりありがとうございます。

2016-05-08 21:24:01
丸島和洋 @kazumaru_cf

中世から近世への移行として、今回敢えて「惣無事令」をいれました。御存知の方も多いかと思いますが、現在の中世史・近世史学界では、「惣無事令という法令はなかった」という見解が有力で、教科書も書き替えられました。

2016-05-08 21:26:18
丸島和洋 @kazumaru_cf

ただ今回の考証陣3名が「惣無事令と位置づけうるものは存在した」と認識しており、かつ「惣無事令」という法令はないとしている論者も「惣無事」という概念そのものの存在は認めており、ようは全国法令か否かという問題だからです。

2016-05-08 21:28:49
丸島和洋 @kazumaru_cf

もともと藤木久志氏が提唱した「惣無事令」は、関白となった秀吉が天皇の叡慮を伝達するという形式をとったというものでした。しかしその後、「惣無事」という文言が出てくる文書が、関白任官以前のものとわかり、「天皇叡慮の伝達」という定義が崩壊したのです。

2016-05-08 21:30:48
丸島和洋 @kazumaru_cf

実際の「惣無事」の初見は、天正11年のもので「信長が御在世の時のように、各々惣無事」というものです。つまり信長段階で、「惣無事」という概念があったことがわかります。ただし、これはあくまで織田政権従属大名同士の戦争を禁じるというものでした。

2016-05-08 21:33:15
丸島和洋 @kazumaru_cf

ですので、この延長線上に秀吉が「法令」として「惣無事令」を出したかどうかが議論となったわけです。織田政権には北条氏政・氏直が従属しており、北条氏と敵対する大名・国衆が、「惣無事」の話を持ち出して、北条勢の侵攻を食い止めさせようという側面もあり、話が複雑化しました。

2016-05-08 21:35:40
丸島和洋 @kazumaru_cf

ここでの問題は、中世法をどう捉えるか、という問題に収斂するものと私は認識しています。ようするに「惣無事令」が存在しないという議論には、秀吉自身が必ずしも「惣無事」の理念通りに動いていないという背景があります。

2016-05-08 21:38:23
丸島和洋 @kazumaru_cf

しかし中世の法は、関係者が自分に有利な法令を持ち出して、自己正当化を図るもので、極端な話、法令ではなく、単行命令が典拠でもよいわけです。そもそも、中世法とは、「御成敗式目」を例外として、「誰も知らない法令」のほうが圧倒的に多いわけです。

2016-05-08 21:41:52
丸島和洋 @kazumaru_cf

だから本願寺証如は、「御成敗式目」の条文では処罰できない犯罪者を死刑に処したいと考えた際に、室町幕府奉行人に問い合わせて、同様の事件で死刑を執行した幕府の先例を教えてもらい、死罪を課しています。

2016-05-08 21:42:47
丸島和洋 @kazumaru_cf

「惣無事令」も、これと同じ理屈だと私は考えています。秀吉にとって、大名間紛争は「私戦」とみなして禁止、という前提があるものの、豊臣政権の意向に沿ったものであるならば、「公戦」と位置づけて戦争許可を出す(上杉景勝の新発田重家討伐など)というもので、「適宜」の運用という理解です。

2016-05-08 21:44:52
丸島和洋 @kazumaru_cf

私見については、『戦国大名の「外交」』(講談社選書メチエ)の終章で、黒田さんの見解については、『小田原合戦と北条氏』の中で記していますので、ご参照いただければと思います。

2016-05-08 21:46:48
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