豊臣政権の「惣無事令」をめぐる考察~(大河ドラマ・真田丸18回「上洛」から)

http://www.nhk.or.jp/sanadamaru/story/story18.html で描かれた、真田昌幸の上洛と豊臣秀吉への臣従、そこから、政権下で大名同士の”戦争”を禁じる、いわゆる惣無事令に関して少し話が出ました。しかしご存知の方も多いでしょうが、「惣無事令」をめぐってはその性質や効力をめぐって多くの議論があります。それを踏まえてどう描かれたのか?またその法の本質は?特に同番組の考証に直接かかわる丸島和洋氏、法哲学者大屋雄裕氏のツイートに注目。
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まとめ管理人 @1059kanri

今回の #真田丸 で印象的だったのは、信繁が昌幸に秀吉を「信長家康に劣らない人物」と説明していた所で、つまり信繁は、今の時点で家康を信長秀吉と比肩しうる人物と評価しているのか、と意外に思いました。

2016-05-08 22:54:27
みょんみょん @washou3956

「惣無事令」は、清水克行「戦国の法と習俗」(『岩波講座日本歴史』中世4、2015年)註(37)でも批判と提起がコンパクトにまとまっている。

2016-05-08 23:13:58
丸島和洋 @kazumaru_cf

ええと今回からクレジットが羽柴→豊臣に変わった…かな。この間の事情の説明するとややこしいのですが、「豊臣」姓というのは、秀吉の関白任官後に創出され、その後朝廷から官位をもらった羽柴一門は「豊臣」姓で官位を与えられました。

2016-05-08 23:17:19
丸島和洋 @kazumaru_cf

ですが、秀吉が「豊臣」姓で官位を与えられたのが、太政大臣任官時なので、どの時点から「豊臣秀吉」と呼んでいいのか、実は結構悩ましいのです。「羽柴」で通すと、「羽柴秀頼」というのは、あまりに馴染みがなさすぎる。それで、太政大臣任官を描いた今回から、豊臣に変更になったはずです。

2016-05-08 23:19:42
丸島和洋 @kazumaru_cf

このあたり、さじ加減が非常に難しいところです。大坂を「おおざか」「おざか」ではなく、素直に「おおさか」と呼んでいるのもその一例になります。

2016-05-08 23:22:09
高村不期 @buqimingri

『惣無事令』が実際にあったかはともかく、「被官同士で私戦すんな」は義輝や義昭も武田・北条・上杉に出していた訳で、室町期を通じて周知が色々と試みられていたように記憶している。秀吉が違っていたのは、不服従に対して軍事制裁を加えられた点にあるんじゃないかなーと思ってみたり。

2016-05-08 23:23:17
🍡🍁 @niimoglacier

@takehiroohya こんばんは。実力の独占という客観的に不合理(理性的でない様)な行為に説明可能な合理性を与えようとしたのが"正当性認定権"なのだろうと思います。個人的に、どのような不合理なことでも合理性の範疇に取り込めるかどうかを試みるのは大切ではと近ごろ考えています。

2016-05-08 23:27:43
丸島和洋 @kazumaru_cf

僕の見解も、だいたい同じものです。近代実定法の概念を中世法に持ち込むことがおかしい、という立場。 twitter.com/washou3956/sta…

2016-05-08 23:34:52
Gryphon(INVISIBLE暫定的再起動 m-dojo) @gryphonjapan

アメリカの超保守派ほど、ある意味反連邦=反政府だというあれかなあ twitter.com/takehiroohya/s… @takehiroohya

2016-05-08 23:57:38
Takehiro OHYA @takehiroohya

これはなかなか厳しくて、実力に訴えたらワンチャンあるかなと思うタイプは世の中からなかなかいなくならない。外部から圧倒的な実力を注入してでもsecurityを実現する必要があると、P・コリアーなどは現代アフリカを事例に主張しています。 twitter.com/bn2islander/st…

2016-05-08 22:43:26
マツ @ma3734649

秀吉が太政大臣になったり関白になったりで悲観にくれた公家が自殺してテンヤワンヤのころ北では伊達政宗が人質に取られたお父さんを銃殺し、西では高橋紹運が壮絶な戦死を遂げその上司・大友家がお家存亡の危機で・・・。まだまだ激動!そら惣無事令とか聞かんです!! #真田丸

2016-05-09 02:30:56
丸島和洋 @kazumaru_cf

ああそうか。昌幸上洛が家康に挨拶をしてからというのが通説、とあるのは、柴辻さんの『人物叢書 真田昌幸』にあるんですね。これ、『家忠日記』の単純な誤読です。ただ、誤読しかねない文章ではあります。

2016-05-09 13:31:40
丸島和洋 @kazumaru_cf

@kazumaru_cf 「酒井左衛門尉が大坂から帰られた。信濃真田・小笠原は関白様の指示により、(家康に)出仕した。酒井左衛門尉が同道した」が正しい訳。原文は「酒井左衛門尉大坂より被帰候、信州真田・小笠原関白様御異見にて出仕候、酒左同心候」というもの。

2016-05-09 13:33:23
丸島和洋 @kazumaru_cf

@kazumaru_cf 平山さんの『真田三代』(PHP新書)では正確に訳されているんだけど、広まらなかったんですね。

2016-05-09 13:34:18
まとめ管理人 @1059kanri

ちなみに史実では逆で、真田昌幸は駿府の家康に挨拶してから上洛しました #真田丸

2016-05-08 20:42:07
yasu @aubykeeidesu

@1059kanri 何で逆にしたんでしょうかね?演出のため?

2016-05-08 22:55:43
まとめ管理人 @1059kanri

@aubykeeidesu 単純にそうでしょうね。劇的さを出すためでしょう

2016-05-08 22:59:37
丸島和洋 @kazumaru_cf

.@1059kanri @aubykeeidesu まとめ管理人さんだからリプしますが、昌幸上洛→駿府出仕という順序であってます。従来説は、『家忠日記』の単純な誤読で、また新出史料で秀吉から家康に真田・小笠原を出頭させたので、徳川の与力とすると伝えた書状がみつかりました。

2016-05-09 23:29:43
まとめ管理人 @1059kanri

@kazumaru_cf @aubykeeidesu なんと、そうだったのですか!それは本当に勉強になりました。当時の秀吉は非常に細やかに家康に気を使っていたのですね。

2016-05-09 23:33:58
丸島和洋 @kazumaru_cf

@1059kanri @aubykeeidesu そもそも、秀吉の構想は、家康を裏切った真田・木曾・小笠原を家康配下に戻すというもので、これが昌幸の主家である上杉景勝に伝えられていました。それで昌幸がつむじをまげて上洛と人質提出を拒否し、表裏比興者の真田討伐令につながるわけです。

2016-05-09 23:42:09
丸島和洋 @kazumaru_cf

@1059kanri @aubykeeidesu それで結局昌幸が上洛に応じたので、三国衆の扱いは「与力大名」となりました。秀吉直臣です。ですが、家康の関東転封時に、木曾・小笠原も同時転封となり、徳川家臣扱いに変更されました。なぜか、真田だけ独立大名を維持し続けるのです。

2016-05-09 23:44:00
まとめ管理人 @1059kanri

@kazumaru_cf @aubykeeidesu 秀吉が家康を臣従させるためへの尽力は、姉と母を人質に送るという、象徴的なものだけでは終わらない物だったのですね。

2016-05-09 23:48:12
丸島和洋 @kazumaru_cf

@1059kanri @aubykeeidesu 「天正壬午の乱」終結時(10月末)の状態(信濃上杉領は川中島四郡のみ)に戻すという含意もあるかもしれません。惣無事の一例です。

2016-05-09 23:52:44
まとめ管理人 @1059kanri

@kazumaru_cf @aubykeeidesu 家康の関東転封に関しては、秀吉の家康への高い信頼が在ると思えるので、真田の待遇は、良くある「徳川の抑え」という解釈だとどうもしっくりこないのですが、上杉景勝との近さが考慮されたと考えても良いものでしょうか?

2016-05-09 23:54:01
丸島和洋 @kazumaru_cf

@1059kanri @aubykeeidesu ものすごい単純に考えると、対北条従属外交に失敗した取次である徳川家康に、北条旧領の行政を任せるという責任論です。真田の場合は、家康外交失敗の「被害者」という面が考慮されたのかも知れません。これで、与力を外れます。

2016-05-09 23:56:28
まとめ管理人 @1059kanri

@kazumaru_cf @aubykeeidesu 「惣無事」も、基本的には戦国以来の「実力次第」の考え方の延長にあるように感じます。

2016-05-09 23:57:12
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