- simasyodes
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GHQの取り調べは苛烈を極め、暴行を受け調書にサインした者もいて田口も取調官に罵声を浴びせられながら取調を受けた。昭和22年(1947)11月10日に起訴となった。
2016-06-23 22:58:32GHQから法務局犯罪捜査部、ヴァーネット・W・ダイヤー陸軍大尉、ハーマン・N・スミス大佐らが検察官として横浜に送り込まれた。
2016-06-23 22:59:09いかに「偏見」に満ちた裁判だったかある横浜軍事法廷のBC級裁判に参加したアメリカ人の弁護人ディキソン中佐はこう言った。「我々はナチスのゲシュタポの行為をやめさせる為に戦争はしたのに、これではゲシュタポと同じではないか」
2016-06-23 22:59:50検察官は田口に棒を差し出し、斬首の仕種を再現させたりした。弁護人は田口は命令従っただけでありやむを得なかったと主張、また証拠された調書の信用性を問いただした。
2016-06-23 23:00:37しかしワイマンはやがて弁護人をやめる。公判中、ユダヤ系の彼に検察官が「民族的な侮辱」を行い法廷を去った。(その後、別のアメリカ人弁護士がつくが弁護人が交代するケースは各地のBC級裁判であり、混乱を極めている)
2016-06-23 23:01:07この期に及んで命令を下したはずの司令官の井上乙彦は「部下が勝手にやったこと」との主張を繰り返すだけで自身の関与を否認していた。
2016-06-23 23:02:41岡田資中将で岡田は陸軍第十三方面司令官と東海管区司令官を兼務しており、昭和20年(1945)5月14日の名古屋空襲で撃墜されたB29乗員27名を処刑した罪に問われていた。
2016-06-23 23:03:47岡田は受刑者達の信頼を集め、房によく訪ねる人がおり、岡田も嫌な顔をせず仏門の説法等をしていたという。 昭和24年(1949)9月17日絞首刑。享年59
2016-06-23 23:04:52井上乙彦はようやく自分が命令を下したことを認め、台湾にも送れず石垣島に食糧がなく捕虜を養う余裕がないので処刑した。とした。しかしあまりにも遅い「変心」だった。
2016-06-23 23:07:08その頃の公判では田口の地元小樽や水産講習所(現在の東京水産大学)で田口の恩師堀重蔵教授や学友、旧軍関係者から6000人も助命嘆願が寄せられた。
2016-06-23 23:08:02また、田口の助命には野村吉三郎(海軍大将、開戦時駐米大使)も動き、日本の軍隊がいかに「上官の命令が絶対」であるかを説いた。
2016-06-23 23:08:14第8軍司令アイケルバーガーに寄せられた6000を超える助命嘆願書は判決まで目に触れることはなかった。(GHQのロッカーに収められたまま)
2016-06-23 23:08:45昭和24年(1949)3月16日横浜軍事法廷に判決が下った。 「デスバイハッキング」 絞首刑 田口に下されたのは死刑だった。
2016-06-23 23:08:57田口について同じ部隊にいた者達は「大人しい人」「優しい人」と口々に話して「処刑など先頭をきってできない」と話す者もいた。
2016-06-23 23:09:14昭和24年(1949)10月18日第8軍横浜軍事法廷は開廷から3年10ヶ月371件1003人の被告全ての審理を終えた。
2016-06-23 23:09:35