エリー・デューリング講演「思弁的美学はどのようなものになりえるか」
- ttt_cellule
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最後の最後に、Mass Cultureについて。これはベンヤミンとかがやってきたことに重なるのかもしれないが、下部において働いているものにメタフォリックな意味を与えるものがMass Cutureだと言う。
2016-07-25 21:07:57Mass Cultureは、環境として、雰囲気として、自分たちを超えた人間の感性的閾域として存在するものであり、限定された群衆によって形成されつつも、それ自体がglobalな雰囲気として存在するものだという(これに近いことボードレールも言ってたな・・・)。
2016-07-25 21:10:02Duringはここでクラカウアーの「Technology has talen us unawares and has opend up regions still looking at us with a blank stare.」という文章を引用する。
2016-07-25 21:11:11膨大に膨れ上がった技術的ネットワークが人間の閾域を超えて巨大なものとして人間の前に存在している。それはリオタールがいう意味での「サブリミナル」なものかもしれないと指摘する。
2016-07-25 21:12:23Duringはだがここで、膨大なハイスピードのネットワークに対して、サルトルの書いた「手紙の時間」を対置する。手紙が届くまでの時間は、過去でも現在でも未来でもない、とDuringは述べる。
2016-07-25 21:13:26技術的に最高速度で届けられる7/24に縛られない、不確かなコミュニケーション、矛盾せるコネクションdiscrepancy connexionの可能性もあるのではないか。そう問いつつ、Duringはコミュニケーションをさらにintenseなものにする可能性を開こうとしている。
2016-07-25 21:16:09結論として、思弁的感性論とは、わたしたちが住んでいる時間的・空間的布置を更新するものであるはずだ、ということがさしあたりの帰結として言われていたように思います。(少し順番は前後してましたが)。以上東方が理解できた限りでのDuringの講演概要でした。連ツイ失礼。
2016-07-25 21:18:13