目的なき合目的性と後期クイーン的問題
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カントによれば、『自然はその美しい所産において、技術として顕示される、しかも単に偶然によるのではなく、あたかも意図をもち、合法則的秩序に従うものであるかのような技術として、しかしまた〔一定の〕目的を持たない合目的性として顕現するのである。』
2016-07-31 08:43:51『(…)自然は同時に芸術のように見える場合に美であった。そして芸術は、我々がこれを人工であると知りながら、それにも拘らず我々に自然であるかのように見える場合にのみ美と称されるのである。(…)芸術は、我々が確かにこれを人工と知っているにも拘らず自然と見なされ得ねばならないのである』
2016-07-31 09:02:07カントはこうも言う。『我々が美に対して持つ所の関心は、その美が自然美である事を絶対に必要とする。それだから我々が欺かれたことを知り当面の美が人工にすぎない事を覚るや否や、これまでの関心は忽ち消滅するのである。そればかりでない、いったんそうなると趣味もその物にもはや美を見出さない』
2016-07-31 09:18:43『静かな夏の宵に、柔かい月光を浴びた幽寂な林の中に囀る小夜啼鳥の美わしい歌声にもまして、詩人の賞賛を博するものはあるまい。ところでこういう実例がある、――この自然の歌い手が折悪しく見つからなかったので、少し茶目気のある主人は、田園の空気を満喫するためにわざわざやってきたお客達を』
2016-07-31 09:56:06『欺いて――というのは、小夜啼鳥の囀りを本物そっくりに真似るいたずら小僧を叢林のなかに潜ませておき、こうしてお客にこのうえない満足を与えたのである。しかしこれが欺きであると判れば、それまで小夜啼鳥の美妙な調べと思い違いしてうっとりと聞きほれていた人も、もはやこれに耳を傾けるに』
2016-07-31 10:00:31『堪えないだろう。こういうことはほかの鳴禽についてもまったく同様である。我々が、美を美としてこれに対して直接的関心を持ち得るためには、関心の対象は自然そのものであるか、或は我々が自然と思いなすところのものでなければならない。』
2016-07-31 10:04:29これはどういうことだろうか。一方でカントは、『芸術は、我々がこれを人工であると知りながら、それにも拘らず我々に自然であるかのように見える場合にのみ美と称される』といいながら、他方、『美が人工にすぎない事を覚るや否や、これまでの関心は忽ち消滅するのである』と言っているのだ。
2016-07-31 10:08:13小夜啼鳥の囀りを本物そっくりに真似るいたずら小僧は、確かに自然を模倣しており、一見『人工であると知りながら、それにも拘らず我々に自然であるかのように見える』という美の条件をクリアするような状況であっても、『美が人工にすぎない事を覚るや否や、これまでの関心は忽ち消滅する』のである。
2016-07-31 10:16:53想像するに、これは認識の順序と関係しているように思う。カントにとっては、自然物と信じていたものが実は人工物とわかれば美ではなくなるが、人工物と知りなお自然物に見えると美と称される。カントにとっては、人工美を感じるためには、あらかじめそれが人工物である事を認識しておく必要がある。
2016-07-31 10:28:04またいたずら小僧には、田園の空気を満喫するためにわざわざやってきたお客達を欺くという意図があった。これは〝目的なき合目的性〟としての自然美とは調和しない。カントの言葉で言えば、『芸術的所産における合目的性は、なるほど意図的なものであるがしかし意図的にみえてはならない』のである。
2016-07-31 10:45:39ところで、探偵小説において〝目的なき合目的性〟としてのカント的美の基準を満足するような手掛りはどのようなものだろうか。まず、それはあらかじめ人工物として探偵に認識されていなければならず、従って明らかに意図的手掛りである事が明らかでありながら、しかし、犯人の意図が見えてはならない。
2016-07-31 10:57:55〝目的無き合目的性〟を持った手掛りとして、例えばその手掛かりが偽の犯人を指名するという、真犯人の意図を内包しない場合が考えられる。この場合、探偵は明らかに偽手掛りであると認識しながらも、なお偽手掛りに犯人の意図が内在しているようには見えないい。この時、カントは手掛りに美を感じる。
2016-07-31 11:07:35この手掛かりは、捜査のかく乱という意図も、真犯人が自白する類の意図も持ってはならない。犯人はただ無心に、何の目的ももたず、自然的手掛かりを模倣した何の役にも立たない人工的手掛かりを製作する。これは確かに芸術作品と呼ぶ他ない。探偵は犯人の残した芸術作品を、ただ鑑賞するしかないのだ。
2016-07-31 11:19:40確かに犯人の残した手掛りでありながら、犯人特定の役に立ってはならないのである。ところで芸術作品においては、例えばハイデガーやガダマーなどは、『芸術作品において、われわれとしてそれ以外のしかたではたっしえない真理が経験されるということが、芸術の哲学的意義をなしている』という。
2016-07-31 11:29:51あるいはアドルノは、『作品の真理内容は、哲学を必要とする。この真理内容のうちで、哲学は芸術とともに一点に収斂し、あるいは芸術のうちにとけあってしまう。』と言う。彼らにとっての美とは『真理が不伏蔵性としてその本質を発揮する一つの仕方である。』これはどういうことか。
2016-07-31 11:42:51簡単に言うと、作者が作品内に真理をそのものとしてではなく、わかりにくい婉曲表現で隠す。鑑賞者はその作品から真理を苦労して取り出す。このとき、鑑賞者は作品内から苦労して発掘した真理に美を見出す。ハイデガーらにとっては、美と真理とは不可分であり、これが自然美と人工美とを結ぶのである。
2016-07-31 11:59:18カント的な主意主義的美と異なり、ハイデガー的美は意図の問題を回避している点が特徴的である。ハイデガーにとっては、作者が作品に込めるのは作者の意図ではない。作者が作品に込めるのは真理という外在的情報に他ならず、この外在的情報の流れこそが芸術作品においては本質的であると見るのである。
2016-07-31 12:08:44このことは、科学的発見おいて発見者が感じる自然美と、芸術的観照において観照者が感じる人工美が同根である事を意味している。人工物においても自然物においても、自身が苦労して獲得した真理に対して美を見出すのに違いはない。ハイデガー的美は探偵小説の手掛りの美しさをよく説明できるように思う
2016-07-31 12:22:29クイーン作品の神髄は意外な犯人ではなく意外な推理にある、と飯城は言う。クイーン作品においては、手掛かりが巧妙に隠されている。探偵はこの、巧妙に隠された手掛りを見つけ意外な推理を展開する。探偵の意外な推理を経験した読者は、獲得した真理に美を見出す。
2016-07-31 12:27:33このとき手掛りが自然物であれば、科学的発見おいて発見者が感じる自然美と同様の美を探偵・読者は経験する。一方で手掛りが人工物であった場合も、探偵・読者はやはり、意外な推理が醸し出す人工美に魅せられる。その手掛かりが、科学的発見と同様の美的経験をもたらす真理を伏蔵しているからだ。
2016-07-31 12:36:03犯人が残す偽手掛りは、ある意味では探偵・読者の観照に耐え得るものでなければならないのである。だれでも容易に手掛りに込められた真理を取り出す事ができてしまうと、それは経験豊かな探偵や読者を満足させる事はできないのではないか。例えそこから真理を取り出しても美が召喚される事はないからだ
2016-07-31 12:41:42逆に言えば、苦労して発掘した真理に美を見出した探偵にとって、その手掛かりが人工物か自然物かは本質的ではない。ここで思い出しておきたいのは、カントによれば、自然物と信じていたものが人工物とわかれば美ではなくなる、とした事である。ハイデガーは、例えそうなっても美は無くならないという。
2016-07-31 12:54:14ただし人工的手掛かりが指し示す真理は犯人の創造した真理であり、自然的手掛りが指し示すより深い真理とは異なる。ひとたび探偵がこの事を認識するや、人工物の美の背後により深遠な美を追求する。かくして、探偵がハイデガー的な意味での美を追求する限りにおいて、後期クイーン的問題は回避される。
2016-07-31 18:24:19ハイデガー的な意味での美は、後期クイーン的問題に対し探偵小説愛好家が示す健全な反応を、比較的上手く説明するように見える。少なくともカント的な意味での美より上手く説明できる。それは恐らく、探偵小説は、芸術作品の中でもとりわけ、真理と美とをより直接的に連関させているジャンルだからだ。
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